雄別礦業所の思い出

※雄別礦業所の思い出は、斎藤@横浜市様に作成して頂きました。

 

はじめに

平成19年2月に思いがけなくある友人から「雄別炭礦の閉山の真相」の論評が送られて来ました。その記事はインターネット上の「雄別の歴史」というHP(ホームページ)に掲載されていることも初めて知りました。そこで早速そのHPの他の記事や写真を閲覧しました。雄別炭礦の歴史を「炭鉱遺産」として閉山当時の様子を記録に留めようと、その私の友人も含めて多くの方々が努力されていること、又そのHPに9万件を超えるアクセスがあるほど多くの方々の関心を集めていることを知りました。

私も昭和40年にその友人と一緒に雄別炭礦(株)に入社し、昭和45年の閉山まで雄別鉱業所に勤務していました。雄別は私にとってサラリーマンとしての第一歩の土地であり、その地で結婚し、長女も産まれました。昭和45年の閉山後は日本鋼管(その後社名をNKK,更に川崎製鉄との合併でJFEに変更)に転職し横浜に住まいが変りました。日本鋼管は新日鉄に次ぐ日本第2の鉄鋼生産を誇る会社で、さらに造船部門とエンジニアリング部門がありました。私はエンジニアリング部門の中のパイプライン関係の仕事に就き、その中でも海外パイプラインプロジェクトに平成18年9月に退職するまで携わりました。パイプラインプロジェクトは石油やガスを井戸元から数百キロ離れた輸出基地や消費地までパイプ輸送するプラントの建設作業です。石炭とは違ってもエネルギー産業の一端を雄別閉山後も担い続けました。インドネシアに始まり、土漠のイラク、砂漠のリビア、マラリアの蔓延するナイジェリア、貧困のガーナ、その他東南アジア、中近東、更には南米で多数の国々をめぐりました。

42年間のサラリーマン生活を終えた今、最初の5年間だけではありましたが、地上のどんな産業とも異なる「石炭産業の特殊性=炭鉱の坑内作業の実態」を記録として残すことが私の責務と感じた次第です。従って、この文は雄別の公式な記録ではなく、私の個人的な雄別での思い出であり、坑内作業の実情を私の印象でまとめたものです。坑内の記述に関しては、坑内作業を知っている人には当たり前のことですが、炭鉱を全くご存知ない方への紹介の積もりで書いております。只重複を避けるためにHPの「炭礦技術紹介1-1、1-2、2」を参照しながらお読み下さい。

同様にHPの中の「雄別炭礦組織図」「あかん2005年5月号」「炭砿住宅について」及び「報告事項」も合わせて参照されると理解が早いと思います。

更に坑内作業の特殊性や危険度を説明する為に、閉山後に私が従事したパイプライン工事等、所謂「岡(おか)」(=坑内との対比で地上のこと)での工事現場での作業との対比で説明していきたいと思います。

入社まで

私は昭和40年3月に北海道大学工学部鉱山工学科を卒業と同時に雄別炭礦(株)に入社しました。鉱山工学科には採鉱第一講座(金属鉱山)、採鉱第二講座(石炭鉱山)、鉱山機械講座、鉱山地質講座の4講座があり、私は当時石炭業界では著名な磯部教授(羽幌炭坑の課長から若くして北大の教授になられた)がおられた採鉱第二講座に入りました。同講座では一般的な鉱山学の外、石炭のガス化(石炭を採掘せずに地下でガス化して回収する)の研究や、炭塵爆発の模擬実験坑道等がありました。私の卒業論文のテーマは「石炭鉱山における岩盤崩落の予知法の研究」でした。当時は国内産業のエネルギー源が石炭から価格も安く取扱い易い石油製品へと移行が進んでいました。又、通産省石炭局では「国内炭鉱のスクラップ&ビルド」政策を進めていました。鉱山の同期は20名ですが大学に残る者・石油会社・商社や機械メーカーへの就職組が多い中、炭鉱へ入社したのは三菱大夕張、住友奔別と私が雄別でこの3人だけでした。

では何故私が雄別炭礦に就職したか、です。

① 北大教養部から学部を選ぶ時に、自然相手の土木工学、衛生工学又は鉱山工学を希望していましたが、勉強もせずにテニス(体育会系で対抗戦に勝つ練習に明け暮れていた)ばかりしていて教養部での成績が悪く鉱山を選択せざるを得なかった。

② 鉱山工学科では「地球上の石油はあと40年、石炭は未だ400年分の埋蔵量があり、必ず必要になる」という主任教授の言に「よし、俺が日本の石炭エネルギーの担い手になってやるぞ」と思っていました。又、同教授からはよく「鶏頭となるとも牛後となるなかれ」と吹き込まれました。

③ 「鉱山工学は帝王学」(土木、地質、電気、機械の知識を持って自然から人間に必要な資源を掠め取る仕事=マイニングエンジニア)であると同教授から常々吹き込まれていました。

④ 鉱山工学科でも講義は最小限しか受講せずテニスばかりしていましたので、4年になっても就職する会社探しなど全くせずに、主任教授から「お前は雄別へ行け」と言われるままに、仙台での東北大学とのテニス対抗戦の前日に東京の雄別本店で入社試験を受けました。

⑤ 卒業までに、羽幌炭砿や住友赤平坑で坑内通気の計測実習、茨城の常磐炭鉱及び秩父の金属鉱山等を学科全員で坑内見学、4年生の夏の卒業実習(10単位)では山口県の宇部興産東見初坑(海底炭坑)に約1ヵ月もぐり、炭鉱労働の過酷さ・危険をも熟知した上で、ヤマ(炭鉱)に働く人々の純朴さと石炭を掘ることに対する気概に大いなる感銘を覚えました。

入社同期の事務方は炭鉱の作業実態をほとんど知らずに入社したであろうが、私は雄別を「これが俺のヤマだ」という意識で入社しました。雄別には北大鉱山の先輩が何人もおり、後輩も続いて入社してきました。

 

雄別入山から閉山まで

昭和40年4月に雄別炭礦(株)へ入社した学卒は7人で、労務、経理、庶務、営業、雄別鉄道、雄別林業に各一名で唯一私が鉱山の技術屋でした。同期の桜7人は4月に東京の本店で約一ヵ月の新入社員研修のあと、雄別、尺別、茂尻礦業所及び上茶路事業所を見学し、約3ヵ月間雄別礦業所で全員が坑内・坑外実習をしました。当時雄別礦業所には約1,200人の従業員が勤務しており、その家族及び関連会社・協力会社を含めると、雄別・布伏内地区で約12,000人が住む一大生活圏を形成しておりました。

雄別に入山した当初、行政上の住所が「阿寒郡阿寒町 雄別番外地」になっているのを札幌の友人へ知らせたら、友人からの手紙が私の手元に届かず送り返されたという笑えないことがありました。

雄別礦業所で実習した同期入社の7人の侍は、合宿(職員が入る独身寮)が一杯で入れず、合宿に一番近い「副長社宅」に寝泊りしつつ、食事と洗濯は合宿のお世話になりました。雄別礦業所の坑内外施設の見学ばかりでなく「採炭切羽の実習」では古洞(ふるとう)の石炭を角スコップで切羽コンベアへ積み込んだり、深ステーブルでは発破により破砕された石炭をビニルトラフを使ってカッチャでゲート坑道のコンベアへ掻き落としたり、炭塵で真っ黒な顔になりながら実習しました。

<注釈>:品質の良い石炭は比重が約1.2でスコップで掬うのは砂・砂利(比重が2以上)より至極簡単。ビニルトラフは軽く取扱いが簡単で摩擦係数が小さいので、傾斜が少しあれば破砕された石炭をカッチャで掻いて流し込むのも軽作業であった。おかの工事現場では大抵鉄板を敷き、ビニルトラフは見かけなかった。

 

「運搬」の実習では、坑口近くの運搬詰所で坑内との電話連絡の時、普通「もしもし」と言うのを「もーし」と長く伸ばして言う独特な話し方に驚いたものです。坑外実習の折は礦業所のお昼休みに庶務・経理・労務課勤務の独身女性社員等と円陣を組んでのバレーボールや、実習後宿舎に帰る前に作業着のままで雄別炭山駅前の雄別商事売店(購買部)での買い物が楽しみのひとつでした。作業着を着た坑内外実習ばかりでなく、雄別鉄道傘下の雄鉄観光バスのバスガイド養成ツアーに我々新入社員も同乗させてもらい阿寒湖、屈斜路湖、摩周湖等を見物できたのは思い出に残ることでした。このガイドさんの中にひときわ目立つチャーミングな美人が一人いました。

雄別礦業所での新入社員実習が終了後、茂尻、尺別、釧路と配属された外、雄別礦業所には雄別鉄道と労務課に各一名、そして私は技術第一課管理係に配属になりました。まだ見習いの幹部候補生だったので、保安整備や企画管理等の半分デスクワーク、半分は入坑して発破係員の補助作業等にあたりました。合宿が空いたので移りましたが、私は相変わらず作業着のまま鉱業所と合宿を往復していました。雄別に来てひとつ残念だったのは私の趣味のテニスが出来ないことでした。職員クラブの裏手にはかつてのテニスコートの跡がありましたが、潅木が生い茂り荒れ果てたままで、とても再び整備してテニスコートに出来る状態ではありませんでした。休日にはたまに釧路に出て買物をしたり、雄別ではクリスマス頃には健保会館の二階でダンスパーティが催され、時には参加したこともありました。当時の所長は単身赴任で合宿に住んでおり、温厚な紳士風で雄別の青少年の社交の場として社交ダンスを奨励していたと記憶しております。又、冬になると雄別小学校のグランドにスケートリンクが出来、小・中学生等に混じって時々スピードスケートで滑走しました。

当時採炭切羽(払い)の主力は堤沢卸で他に北進昇・長崎沢・一斜坑及び奥雄別がありました。炭鉱作業員の勤務体系や作業場所によるHardshipの違いを理解したのも雄別入山一年目の頃でした。

炭鉱という所は坑員と職員との区別がはっきりしており、坑員は労働力の提供者であり給与も日給月給であるのに対して職員は管理職であり月給でした。従って労働組合と職員組合の二本立てでした。私は学卒だったので最初から職員でしたが、炭鉱で管理職に必要な「危険物取扱主任者」や「坑内保安係員」の国家試験の資格を取るまでは一人前とは言えず、見習い士官でした。坑内作業の花形は当然採炭切羽(払い)であり、次いで掘進現場、仕繰作業の直接坑内員であり、運搬、測量、保安整備、機械・電気等は間接工でした。

直接坑内員の給与は作業職種(採炭、掘進、仕繰等)と坑内作業環境で細分化されており、作業の危険度、湿カタ度(作業場所の温度、湿度及び風速による環境=地上で言う不快指数に似た数値で表示)、水濡れ度等の度合いにより諸手当が細分化されていた、と記憶しています。我々学卒の初任給の月給は2万5千円程度に対して砿員でも古手の先山は5~6万円は取っていたと思います。同じ採炭夫でも下請けの「村井組」では作業が多少きつかったようですが、10万円を取るという話に驚いたものです。

間接工の坑員は同じ坑内作業でも直接坑内員と比べ作業の危険度が少ない分給与も低く抑えられていました。工業高校卒は一旦坑員として入社し、作業経験を積み、資格試験に合格後「発破係員」となりましたが、職制上の資格は「助手」でした。

<注釈>:炭鉱の雇用体系はほとんど直傭=直接雇用でした。後年私は日本鋼管でイラクやリビアで石油・ガスパイプライン工事の施工管理をしましたが、日本鋼管の社員は20名に協力会社の日本人が20名で、下請工事会社を管理しました。その下請会社は一部の仕事を更に孫請けさせ、全部で800~1,000人の熟練工(白人)や作業員(インド、パキスタン、バングラディッシュ、タイ人等)を雇って工事をやります。日本国内の土木や建築工事も「下請け-孫請け-曾孫請け」の工事体制が普通で、炭鉱の雇用体系と異なります。
昭和41年、雄別入山2年目に「危険物取扱主任者」や「坑内保安係員」の資格を取得すると直ちに掘進や採炭切羽の「発破係員」として3交代勤務につきました。この頃、石炭合理化事業団の調査団が雄別に来られて、採炭現場のWS調査に協力しました。これは“Working Sample”手法を使って採炭切羽での実作業時間と手待ち時間(アイドルタイム)を把握して、作業能率の向上を図るものでした。この調査の結果、雄別礦業所は当時言われていた「スクラップ&ビルド」の内、ビルド坑と評価されたと記憶しています。

昭和42年の9月には当時雄別小学校の教諭をしていた女性と結婚し、山の手三丁目の職員社宅に入りました。彼女は雄別生まれの雄別育ちで父が礦業所で運搬の係長だったことから、炭鉱での生活のイロハを熟知していましたので、大変助かりました。結婚当初職員社宅に入るときに準備したのは、家具・電気製品を揃える外に、約20人分の食器類を揃えることでした。これは盆・正月・花見等の行事のある都度、同じ職場の作業員を家に呼んで酒と肴でもてなすのが職員の責任であったからです。職場の仲間同士はお互い言いたいことを存分に言い合い、結果として職場の和を保つことが危険な坑内作業をしている者にとって重要なことであったからでしょう。経験豊かな先山から色々な仕事上のノウハウを聞かせてもらったものです。

昭和43年、入社3年目には「上級坑内保安係員」の資格を取得後に堤沢卸払いの「担当」になりました。当時雄別には堤沢卸のほか、一斜坑・北進昇・長崎沢・奥雄別の採炭切羽がありました。その中でも堤沢卸が炭層も厚く主力切羽でしたが、通洞から二本の斜坑を下る、雄別では最深部の「払い」でした。採炭切羽の作業実態は次章に記述しました。

昭和44年、入社4年目には「主任」に昇格し、堤沢卸の採炭・掘進・仕繰全般をみることになりました。8時半に入坑して、現場を一回りして12時には事務所に戻ってきました。閉山半年前に突然私が堤沢卸の係長職を命ぜられたのは技術一課内の人事のごたごたからだったように記憶しております。雄別の中でも最も出炭量が多く、最新式の機械化採炭を目指していたメイン鉱区の責任者になり、これから将来計画の立案等にも参画できると期待していた時の突然の閉山でした。

坑内作業(採炭切羽)の実態

(入坑時の風景)

採炭切羽や掘進現場は3交代勤務です。一番方の定時勤務時間は7時入坑の15時出坑です。二番方が14時入坑の22時出坑、三番方が21時入坑の5時出坑でした。坑内入坑者が一番多いのは一番方です。1時間の早出出勤と1時間の残業勤務がありました。入坑する作業員(砿員)は通洞入口にある「進発所」で自分のキャップランプをヘルメットに装着し、「繰込所」に自分の伝票(名称を覚えてない)を出します。坑内は当然ながら火気厳禁のため禁煙ですので、喫煙者は人車乗込み前が最後の喫煙チャンスで、煙草・マッチは繰込所に預けます。発破係員は火薬庫からその日の作業に必要な爆薬と雷管を火薬庫から受領し、水平通洞の入坑用人車のバッテリーロコの直ぐ後ろに連結されている「火薬専用車」に乗せます。「払いの担当者」は繰込所に出された砿員伝票を受け取り、その日の作業割り当てを考えながら先頭の人車に乗り込みます。

(「出稼率」という言葉)

各作業現場在籍の作業員がその日何人出勤するかは、繰込所に出される作業員伝票を数えて初めて分かります。病気、怪我の外、結構自己都合で欠勤する砿員もおり、出勤を督促するのも労務課各区詰所の重要な仕事でした。炭鉱では「出稼率」という言葉がありましたが、在籍者数に対する出勤者数のことで、通常85~90%で良いほうでした。給料日の翌日や祭日明けには出稼率が60~70%位に落ち込むことも珍しくありませんでした。機械化が進んでいたとはいえ、当時でもまだ雄別は「労働集約産業」の典型でしたから、頭数を揃えないと出炭量も望めませんでした。直接坑内作業員は肉体的にかなり過酷な労働なので、「食うだけ稼げばあとは身体を休める」という風習が昔からあって、当時の雄別にも残っていた炭坑夫気質だったようです。只そういった風潮の中で、真面目に働く砿員も多く、13年間無欠勤(盆、正月も含め)という坑員がいたのも事実です。

<注釈>:海外パイプラインの工事現場では数人の“Time Keeper”という職種の作業員がおりました。工事現場毎に作業員の出面(でづら)を数えて、賃金台帳の元資料としたものです。当時国内の事務所勤務者は大体がタイムレコーダーで勤務時間管理が行われていました。
(採炭切羽まで)

坑口から入った人車は雄別通洞を時速20キロ位の速度でトロリーロコ(トロリー式坑内電車)に牽引され走行し、手前から一斜坑、北進昇り斜坑の停留所でその現場の作業員を下ろします。堤沢卸の作業現場へ行く作業員は通洞から更に堤沢人車卸の斜坑人車に乗り換えます。この斜坑人車は巻揚機の太いワイヤロープにより昇降しましたが、走行速度は12km/時程度でした。採炭切羽の深け側にある片盤坑道の巻立まで到着しますと、そこから後は切羽近くにある休憩所まで徒歩です。そこに到着すると作業着に着替えたり、各自の作業道具を道具箱から取り出し作業準備にかかります。一方、発破係員は爆薬に雷管を埋込む作業をし、払いの担当は先ず切羽の深(ふけ)から肩(かた)迄をざっと前方の切羽作業終了状態を確認に一往復します。その後、休憩所に待機している砿員各々に作業を有付けます。坑口入坑から採炭切羽での作業開始までに約1時間を要しました。

採炭切羽では一方の作業員(砿員)は25~30名で先山と後山が対になり作業し、大先山が全員を統括するが、個々の作業員への作業指示は職員である払いの「担当=坑内保安係員」が行ないました。各払いには担当を補助し、発破をかける「助手=発破係員」が2~3名配置されていました。
(パンツアコンベア)

堤沢卸は長壁・後退式採炭法で、切羽長は百数十メートル、炭丈約1.8メートル、切羽の傾斜は深け側に20度位だったと思います。片盤坑道は斜坑の巻立から数百メートル奥にあり、一つの採炭切羽は数ヶ月から約一年かけて採炭します。堤沢卸の採炭機械はドラムカッターで天炭落としの発破との併用でした。採炭切羽で破砕された石炭はパンツアコンベアでゲート坑道の同じくパンツアコンベアまで運ばれました。このコンベアは長さが1.8メートルあるH型の鋼鉄製の頑丈なトラフを敷き並べた上を、約1メートル毎に同じく鋼鉄製のスクレーパ(掻き板)を取り付けたダブルチェーンが原動機で時速2km位の速度でゆっくりとコンベア上の石炭を掻いでいく構造でした。切羽コンベアからゲートコンベアへの落口(積替え)には「スイッチ番」がおりました。時々畳1~2畳もある塊炭がコンベア上を流れてくると、コンベアを止め、コールピックで細かく破砕するか、大き過ぎる時は発破係員に「ガニ発破」をかけてもらい、コンベアの停止時間を極力短くするのに大童でした。

切羽コンベアの運転・停止の押しボタンスイッチは払いの中に点在しており、肩から材料を流したり、鉄柱・カッペを流すのにも使いますので、頻繁に運転停止が必要でした。暗闇で炭塵立ち込める切羽内で、離れた場所同士コンベアの運転停止の合図にはキャップランプを回したり、横に振ったりしたものでした。

<注釈>:パンツアコンベアの原動機は耐圧防爆型の恐ろしく頑丈で重い代物で、駆動部とはローターで繋がっています。これは粘性のある油が中に入った流体継手構造で現場では製品メーカーの名前である「シンクレア」と呼んでいました。

このコンベア上をドラムカッターの本体が走行するので、相当頑丈な鋼鉄製でしたが、チェーンをガイドするシャックルとトラフとは常時擦れ合うので長年使用するとトラフの耳が取れるほど磨耗することも往々にしてありました。又堤沢卸のような20度もある切羽ではこのコンベアが自然にずり下がるので深け側ではトラフの切り詰め、肩側ではトラフの延長作業が頻繁に必要でした。このパンツアコンベアの古洞側にはドラムカッター駆動用ケーブル受けと、切羽の作業用に圧縮空気ホース、散水用水ホース及び信号ケーブルが併設されていました。
(ドラムカッター)

ドラムカッターの運転工は採炭切羽の花形でした。運転の良し悪しで出炭量が決まるからです。運転工は深ステーブルでの待機中にドラムのビット(歯先に超硬合金が埋込まれている)を新しいものに交換します。ドラムカッターは無段変速で柔らかい石炭なら切羽のパンツアコンベアから石炭が溢れる位幾らでも切削できます。しかし狭炭層では一部にシェル(頁岩)や亜炭が石炭と互層になっており、ビットの切れ味でドラムカッターの運行速度が変ってきます。ドラムカッターは最速では分速3~4メートルで切削できますから、切羽の立柱が大抵間に合わず、ポケットと空車の状況をみながら稼動したものでした。切削中はドラムから散水しても切羽内は炭塵がもうもうと立ち込め、時には一部岩盤を切削すると白い粉塵も混ざったりしました。ドラムカッターは炭壁を切削して肩ステーブルに到着後、切羽へのカッペ延長を待って、プラウで切羽の石炭をコンベアに積み込みながら深ステーブルまで下がります。このときはドラムで切削しませんので分速5メートル位と早かったと記憶しています。

<注釈>:注釈:日本の炭鉱の採炭機械は当初ドイツからの輸入でしたが、国内では当時既に日立製作所や三井三池製作所が採炭機械を製造しており、私も東京本店での研修の折に日立の那珂工場へ立会い検査に行った経験があります。
(出炭量を決める配車数)

採炭切羽から石炭がコンベア上を流れているのは、ドラムカッターが炭壁を切削しながら切り上がっている時、ドラムカッターのプラウで切羽の破砕された石炭を押しながら深けに下がる時、切羽やステーブルに発破がかかった時だけで、コンベア移設時や材料・鉄柱流しの時、石炭は流れていません。切羽からゲート坑道のコンベアを経由して石炭は一旦ポケットに集められ、そこで炭車(容量は1.6立方米)に積込まれます。坑外から採炭切羽のポケット下に配車される空車は一回に20~30函(車)でした。ポケットの破砕石炭を貯蔵する容量はせいぜい40~50函分で、ポケットが満炭になると(赤灯がともる)、ゲートのコンベアが連動して停止する仕組みになっていました。その場合、いくら石炭を流せる状態でも切羽のコンベアも動かすことが出来ません。従って、ポケットに赤灯が付かないように、空車を前もって手配しなければならず、作業時間の後半では全切羽の空車の取り合いになったりしました。同じ採炭切羽では3交代の作業時間合計でドラムカッターは切羽を1.5~2往復しましたから、どの状態で前方から作業を引き継ぐかで出炭量はかなり違ってきます。普通一方で100~150函ですが、200函も出すと大威張りでした。各方の出炭競争は相当なもので、どの方も係員・坑員共々一致団結して出炭を上げることに邁進したものです。
(切羽での主要な仕事)

ドラムカッターの運転工は一名、ステーブルや発破のための穿孔は6~8名程度で、その外切羽の主要かつ重要な作業は天磐の支保です。その為のカッペ延長・立柱そしてカッペ・鉄柱の回収作業でした。(採炭切羽の作業移行状況は「炭礦技術紹介2採炭」を参照して下さい)ドラムカッターが切羽面を切り上がると天炭(ドラムより上の石炭)は天磐から剥離して自然落下します。落ちない時は孔を繰って発破で落とします。その時点で切羽面には約60センチ幅で天磐が無支保状態になります。そこでこの天磐下に先山が入り、後山が差し出すカッペ(重量は20キロ位)を延長するのです。カッペを持ち上げる腕力と二人の息が合わねばなりません。カッペ間は1.2メートルと離れているので、天磐が間漏れ(落石)しないように矢木を入れ、連結ピン(楔)をツルハシの頭で力一杯打ち込みます。裸天磐の下に入る先山は天磐の落石、浮石の有無の判断とその除去作業があり、経験を積まないと出来ない仕事です。

ドラムカッターがプラウで切羽面の破砕炭をコンベアに積み込むと肩側からコンベアを切羽側に約60センチ移設します。ジャッキの代わりに鉄柱を使用しますが、鉄柱ハンドルの手操作では一回に数ミリしか伸びずにかなり時間を要します。そこで坑木をコンベアのスクレーパと鉄柱間を切張りに、コンベアをチョイ運転して、一気にコンベアを切羽側へ寄せる荒業をすることもありました。

コンベアが切羽側に寄ると、天磐に伸びたカッペに鉄柱を建て付けます。鉄柱は一本30キロ位の重量があり、傾斜している切羽では結構扱いが大変な重労働でした。これも先山と後山の息の合った作業が必要でした。鉄柱は天磐と下磐を鉛直に立てれば良さそうなものですが、切羽傾斜を考慮して若干垂直側に立てます。この角度も先山の経験によるものです。鉄柱が滑らないように下磐にツルハシで少し窪みを作り、鉄柱の足を入れます。鉄柱はエアガンでカッペまで伸ばし、締め付けは先山と後山が一緒に力を合わせて矢木が潰れる位までハンドルを何回も操作します。鉄柱・カッペは隣どうしが千鳥の配列になっており、一列置きに切羽に前進、古洞から回収を繰り返します。この隣り合ったカッペ間に矢板で切張りを入れます。磐圧により鉄柱が横倒しにならないように、謂わば切羽全体で天磐を支保するストラクチャ(構造)としました。

立柱が済むと、今度は古洞の鉄柱とカッペの回収作業を先山と後山が組みになって行います。回収するカッペには丈夫な麻紐を、鉄柱にはレバーブロックやエアブロックを前もって引掛けておきます。カッペのぴんをツルハシの頭で叩いて抜き、鉄柱の油圧を抜くと同時にカッペと鉄柱を切羽側に引っ張ります。それと同時に古洞が崩落して鉄柱の間に雪崩込んできます。大崩落で時には鉄柱やカッペを回収し損なうこともありますが、古洞には何も残さないのが上手な採炭なのです。

<注釈>:おかの工事現場ではクレーン以外で重量物を吊るのは専らチェインブロックを使用し、レバーブロックやエアブロックは見かけません。エアブロックは5トンと10トン用があり、エアの供給具合で調整が可能で便利な工具でした。
(切羽での作業環境)

堤沢卸の採炭切羽は地下数百メートル位の雄別では最深部なので地熱で空気は蒸し暑く、年間を通して30度位あり、湧水も多かった。切羽で採炭機(ドラムカッター)が炭壁を切削している時や、天磐についた石炭層に発破をかけた時には、もうもうたる炭塵でキャップランプの光もぼやけるほどでした。作業員は全員防塵マスクを付けていますが、眼鏡をかけていた私は眼鏡が曇りガラス状になり、悪戦苦闘したものでした。一時間の昼休みは休憩所で炭塵で汚れた顔や手を洗い各自持参の弁当を食べます。払いの係員・担当は切羽からの出炭をスムーズにするためと作業の手待ち時間を減らすために、早飯や遅飯と言って昼休みの休憩を30~60分ずらすように作業員に指示することもありました。切羽の作業は出坑時間(一番方なら15時)の約1時間前に終了し、休憩所に戻りシャワーで身体を洗い、作業着を着替えました。ですから採炭切羽での実働時間は5時間でした。3交代作業の勤務時間は一時間づつラップしていましたが、切羽では一時間が空きます。それでその一時間は前方が残業し、後方と「面交代」しますが、残業させる作業員を指名するのは係員の権限でした。残業一時間の手当は定時勤務の八分の一に割り増しが付いていました。残業の指名権、これも労務管理の一環でした。

坑内作業の特殊性(危険度)

炭鉱の坑内作業はおかのどんな厳しい環境の作業と比較しても特殊であると思います。閉山後私が就職した日本鋼管の製鉄部門では高炉やコークス炉等は高温の輻射熱、有毒ガスの発生する危険な職場であった。又造船部門では特に夏の船殻溶接現場では溶接熱により鋼板の温度が大気温よりかなり上昇して過酷な労働条件を強いられます。

しかし炭鉱の坑内労働環境は以下のとおり全く特殊なのです。

① 青空の無い真っ暗闇の中の作業です。

水平通洞や運搬用の斜坑は入気坑道なので、常に新鮮な坑外の空気が流れている為、適当な間隔で照明灯が設置されています。然し、片盤坑道や採炭切羽、排気斜坑等の通気には石炭層から湧出するメタンガスが含まれているので、常備された照明は皆無で作業員のヘルメットに装着されたキャップランプの明かりを頼りに作業を行います。

② 坑内の作業現場に強制通気を行いながら作業します。

炭鉱の強制通気には2通りの必要性があります。ひとつは作業員の呼吸に必要な酸素濃度(21~19%)の空気を送り込むことと、石炭層に吸着しているメタンガスが坑内で拡散しても空気中濃度を1.5%以下にするためです。メタンガスは空気中の濃度が5%を越え着火源があると爆発し、メタンガスが9%濃度の時最大爆発力、15%を超えると爆発ではなく燃焼します。炭鉱災害の内、ガス爆発は甚大な被害をもたらします。排気坑道の坑外に設置された大型扇風機で坑内の空気を強制的に吸出し、入気坑道から新鮮な坑外の空気が坑内の作業場に入る仕組みになっています。酸素濃度16%以下では人間は酸欠で倒れます。坑内空気は通気の下流ほど酸素濃度が下がり、法定では19%以下の酸素濃度では作業禁止になっていたと記憶しています。更に危険なのは一酸化炭素ガス(CO)ですが、雄別ではほとんどなかったと記憶しています。坑内係員はメタンガス濃度を計測する「ガス検定器」を常時携帯して、作業時間には頻繁に、更に発破の前には必ず計測していました。

③ 磐圧との戦いです。

道路・鉄道等のトンネルは恒久的に利用する前提で掘られるので掘削後、鉄筋コンクリートやシールドで防護しますが、炭鉱の坑道は採炭完了後放棄する一時的なものなのでコストをかけずに施枠します。おかの土木工事の掘削溝やビル建築の基礎部掘削では土砂の崩落を防ぐために鋼矢板や鋼管パイルで所謂「土留め」をしますが、これは「土圧」に打ち勝つためです。一方、炭鉱の採掘現場(切羽)には土圧ではなく「磐圧=岩盤全体の圧力」がかかります。石炭層も天磐の岩石とも生成の状況からどちらも層状になっており、石炭層が採掘されて空間になると天磐の岩盤が層間剥離して、採炭切羽で天磐を支保している油圧鉄柱(一本の支持荷重は30トン)に荷重がかかってきます。採炭切羽の鉄柱・カッペは切羽全長に亘って60センチ間隔に数百本で支えていても天磐の岩石死荷重を支えきることは出来ません。鉄柱に限界荷重以上の磐圧がかかると、油圧鉄柱は収縮します。鉄柱は収縮代一杯になると「タイト」の状態で天磐を支保する力を失い、そのままにしていると折れてしまいます。高価な鉄柱をタイトさせないように、切羽の進行と同時に鉄柱を回収(抜柱)し、天磐の岩石を崩落させて、嵩が増すことにより大天(切羽にかかる最大の磐圧)から逃げているのです。切羽は常に採炭し続けて進んでいかなければならないので、3交代で連続作業をする訳です。

長壁式採炭切羽では最初切羽が進行して約20~30メートルで吊り天井状態になります。天磐の上の方で岩盤に亀裂が入る時に、遠い雷の様な「山鳴り」が始まります。その場合、古洞の天磐に穿孔し、火薬を詰め、発破をかけて人工的に崩落させます。さもないと切羽が全長に亘って潰れてしまうのです。石炭層に沿って採炭切羽は準備されますが、地層の傾斜が徐々に変るだけでなく断層に当たると、その箇所では磐圧のかかり方が変ってきます。地下で石炭層が断層で数メートル食い違った箇所を見ますと、まるで豆腐を包丁で切ったかのように綺麗な面になっており、自然の力の偉大さに畏怖の念を感じるときです。地上から数百メートルの地下では磐圧は上からばかりでなく、下からもあります。掘削した坑道の下磐が周囲の磐圧で持ち上がるのを「磐膨れ」と言いますが、発破をかけて再度掘り下げるしかありません。掘進切羽も採炭切羽もこの磐圧を如何に回避するかが技術なのです。言い換えれば、危険を回避しつつ、地下に埋まっている石炭を自然のご機嫌を損ねないように騙し騙し採ってくるものです。

<注釈>:金属鉱山(メタルマイン)は全く様相が違っております。鉱物を含む岩盤では石炭層のような堆積層ではなく、硬い深成岩や火成岩なのでダイナマイトを使って蟻の巣のように無支保で鉱石を採掘できます。

④ ガス突出や炭塵爆発の予知・予防が必須です。

石炭生成の歴史から、狭炭層にはメタンガスが相当量吸着しており、このガスを希釈して排出しなければなりません。所がこのメタンガスが凝縮して地層に溜まっている箇所が時としてあります。このガス溜りを掘進切羽の発破等で刺激して、一挙に噴出するのがガス突出です。突出したメタンガスが微粉炭を伴い坑道一杯に充満すると、坑道の施枠が破壊されたり、作業員はガス圧で飛ばされたり、更に酸欠の危険もあります。運悪く着火源があるとガス爆発や坑内火災が発生します。石狩炭田の原料炭ヤマと違い、一般炭の雄別ではこの危険性はさほど高くなかったと思います。

<参考>:「ハインリッヒの法則」(1件の大事故の背景には29件の小事故があり、さらにその背後に300件の事故寸前のヒヤリとする出来事が潜んでいる)は一般的なおかの工事現場のことで、炭鉱はもっとシビアであるというのが実感です。

高能率採炭への努力

私が雄別に入山した昭和40年頃の採炭切羽にはシングルジブカッター・トレパナーやドラムカッターが稼動しており、その前年には出炭年間72万トン、能率50トン/月・人と全国の中でも機械化の進んでいる炭鉱でありました。しかし、奥雄別では炭丈60センチの切羽で採炭していましたし、切羽では発破も併用しておりました。天磐支保は従来の油圧鉄柱とカッペであり、切羽作業員の大半がこの鉄柱・カッペ立付けと回収作業にあたり、後は発破に伴う作業でした。

昭和44年に堤沢卸の「モデル切羽」に導入された自走枠(=シールド枠)とレンジングドラムカッターは今までの採炭切羽を一変させました。自走枠は固定シューに乗った2本の鉄柱とルーフビーム(カッペと同じく天磐を支える梁)が連結されており、更に1本の鉄柱と連結されたルーフビームが切羽側にあり、それが千鳥に配列されていました。自走枠は油圧で天磐を支保するだけでなく、切羽のコンベアを押し出したり、自走枠そのものを尺取虫のように切羽に向けて前進させたりできました。ルーフビームの幅は従来のカッペの3~4倍と広く、間漏れによる落石での危険性が皆無の上、従来のように先山が無支保状態の切羽にカッペ延長のために入ることも無くなりました。今迄の重い鉄柱・カッペを取り扱う重労働が自走枠のレバー操作で簡単に出来るように変りました。

レンジングドラムカッターはドラムを下磐から天磐まで上下出来、かつドラムのビットが渦巻き状に装着されている所謂「ヘリカルドラム」なので、ドラムカッターにより切削された石炭は切羽のコンベアに送り込まれました。この最新式の採炭機の使用により炭丈全部を切削できましたので、肩・深けステーブル以外、切羽では発破作業が不要になりました。この機械化切羽は今までの半分の人数で、かつ作業員の重労働を軽減し、天磐からの落石や崩落の危険性も少なくなりました。

昭和44年の秋にこの「モデル切羽」での出炭能率を確認するため、他の採炭切羽が出炭しない休日に雄別にある炭車を全部そのモデル切羽の積込み口に配車し、自走枠と採炭機をフル稼働させたことがあります。その結果出炭量は従来の堤沢卸切羽のなんと3倍にも達しました。

しかし、炭鉱は採掘技術・採炭機械の革新だけでは全山の能率を飛躍的には上げることは出来ません。石炭産業は言わば切羽から選炭場迄全てが連結している「輸送」業です。高能率で採掘された石炭を、同様な効率で坑外まで運搬する必要があります。

ゲート坑道ではパンツアコンベアではなく、パンコンベア(パンツアコンベアの約2倍の速度)を一部使っていました。炭車の回転を良くするには、運行速度を上げることです。そのために雄別通洞は何年も前から少しづつ追切(断面拡大)作業をしていました。作業員の入出坑時は斜坑、通洞とも人車を運行するため炭車(空車、荷トロ=実車)は運行出来ませんでした。この隘路の最終目標は石炭運搬専用のベルトコンベアを設置することです。

又、運搬ばかりでなく、採炭切羽の能率が倍になれば、次の切羽の準備をする片盤掘進作業も今までの倍の能率が要求されます。沿層坑道掘進であれば、当時太平洋炭礦には既に稼動していたコンティニアスマイナー(レンジングドラムカッターを掘進用に応用した機械でシャトルカーに積み込む)を、又、岩盤掘進であればロードヘッダー(岩盤掘進用の全断面穿孔機)を導入することが必要でした。

昭和45年の初頭でも雄別の閉山など夢にも考えずに、将来の高能率採炭を模索しつつ、職員も砿員も働いていたので、閉山の報には「晴天の霹靂」の感がありました。

あとがき

昭和45年3月に閉山により雄別礦業所を離れて、早37年。当時のことは遥か昔の出来事ではあっても、HPの「炭礦技術紹介」を読むと、鮮明な記憶として脳裏に蘇えってきます。この著者が奥雄別の掘進現場から堤沢の最深部で発破係員として働いていた由、私の知っている係員かな?と思ったりします。この紹介文は簡潔且つ要領を得て分かりやすく、よくまとまっていると感心しました。

「炭鉱遺産」の一端として、私の雄別の思い出を綴ってみましたが、坑内作業の特殊性とやまに働いていた男達の気概を説明するには余りに筆力が不足していることに、我ながらがっかりしています。先の大戦後の戦後復興のために所謂「傾斜生産」と言って、石炭産業には国を挙げての後押しがありましたが、私が雄別に入社した当時でも優秀な諸先輩が沢山まだ在籍されていました。その先輩諸氏を差し置いて、このような拙い文をHPに掲載されて良いものか悩むところです。当時の記録や写真等も無いまま、自分の記憶の中から引っ張り出した記述なので、多少は思い違いや誤った点があるかもしれません。

お気づきの通り、この文の中には「雄別での災害(死亡事故)」には敢て触れておりません。私が過ごした5年間でも7名が尊い命を落とされ、私自身も切羽の崩落事故で粉炭に埋没したご遺体を掘り起こしに行ったことがあります。ご遺族のことや関係者のことを考えると、詳しい事故報告書の内容を知らないで、私の記憶だけで書くことは憚れるからです。又、「雄別閉山の是非」を論評することも“死んだ子の年を数える”だけでしょうから書くのを控えさせてもらいました。