雄別炭礦の閉山の真相

※雄別炭礦の閉山の真相は、みわ氏に作成して頂きました。

 

雄別炭礦は昭和45年(1970年)2月28日に閉山した。
この閉山事情は今もって語られることは少ない。通常企業がなくなる場合、その多くは経営がなりたたなく「倒産」することが多い。いろいろな本にも倒産により閉山と書かれているものがみられる。

ところでどうして炭礦が採掘をやめるのを閉山というのだろうか。石炭会社は広い鉱区を所有し石炭を採掘し、石炭以外を捨てる場所を確保するだけではなく、その敷地内に社員の住宅を建て、電気・水道・風呂・病院・スーパー・宿泊場所・宴会場所、雄別の場合は映画館までの生活インフラを所有している。
このため閉山すると一企業が消滅するだけではなく、その地域そのものがなくなるわけである。現実に雄別の場合は1万2千名が住んでいたその場所が、今は原野になっていることから分かるように、地域そのものが消滅することからその社会に与える影響が大きい。このため閉山という言葉に企業の消滅に加えて地域の消滅をさしている。

しかしながら、雄別炭礦を所有する雄別炭礦株式会社は前年に茂尻炭礦を閉山し、昭和45年に所有する雄別・尺別・上茶路炭礦に加えて関連会社こみで会社そのものを「解散」することにより、雄別炭礦を閉山させたのである。
当時の経営者は黙して語らないので真相は分からないが、なぜ企業解散という道を選んだのであろうか。当時入社4年目の若手社員だった私には分からないことだらけであるが、閉山事情を類推してみたい。

 

雄別炭礦の動向

本来炭鉱の閉山は予測しやすい。地下の石炭を掘り出すためには様々な準備がいる。炭層に沿って坑道を掘り(掘進)採炭現場(切羽)を用意する。いま採炭してる切羽が終了した時には、次の採炭現場が準備されていなければならない。このため次の採炭現場を準備する掘進を止めれば閉山間近と関係者はわかる。また、より奥地や深部への主要坑道の掘進をやらなくなっても同様である。
もう一つ、坑道が崩落しないように坑道から一定距離の炭層は採炭しない。これを保護炭柱という。保護炭柱は坑道に近い場所にあることから、極めてコストがかからず採炭することができるわけで、炭鉱の最後の財産ともいえる。

つまり、次の採炭現場への準備をせず保護炭柱に手をつけ始めると閉山が近いわけである。
現に閉山した太平洋炭礦を引き継いだ釧路コールマインは深部開発はせず上部の保護炭柱などを採掘し、当初予定の5年経ってもまだ採掘し終わらずさらに期間を延長する。また経営状態も開発投資が最小に抑えられているとともに、世界的な石炭価格の堅調により極めて順調である。

ひるがえって雄別炭礦をみてみると

1.次の採炭現場(切羽)準備は着々としていた。
2.他社にさきがけて、天盤を支える鉄柱に変わる次世代型の「自走支保」を購入し坑外で組み立てていた。
3.将来の戦略のため、奥雄別鉱区に隣接する住友石炭鉱業株式会社が所有する北陽鉱区の採掘を申し入れ了承された。これにより堤沢鉱区、奥雄別鉱区、北陽鉱区の3鉱区体制とする計画をもっていた。

まさに閉山を予測されるものはなかったにもかかわらず会社解散による閉山が行われたのは、どういうわけであったのであろうか。

[参考] 住友石炭鉱業株式会社北陽鉱区の状況

北陽鉱区は雄別の北西にあり、奥雄別鉱区の隣接地で鉱区内にシュンクシタカラ川が流れている。阿寒町から一部白糠町に所在する。北西をウコタキヌプリ断層、南東を北陽断層に囲まれた46K㎡の広さを誇る。炭層は尺別層地層内に8尺層・4尺層・10尺層の3炭層。雄別層本層地層内に1炭層(山丈2.13m、炭丈2m)が存在する。昭和39年から40年にかけて住友石炭は露頭炭の一部を露天掘りしたが、地下部は奥雄別通洞からでないと採掘できないので取り残されていた。(現在のNEDOの試錐調査参照)

 

石炭業界を取り巻く動向

ここで石炭業界を取り巻く動向について目を転じよう。
石油に押され一般家庭での使命を終えた石炭は、昭和40年代には鉄鋼業界と電力業界に納入されていた。銑鉄を精錬するための石炭は原料炭といわれ、釧路炭田の石炭は一般炭といわれ電力会社に納入されていた。電力会社は価格の安い海外炭を優先使用したかったが、日本政府はエネルギーの安全保障の観点から一定比率の国内炭を使用するべく電力会社に要請していた。一方国内石炭会社には石炭価格を引き下げるよう要請していた。

日本政府は石炭の生産性を向上させるとともに、国内炭の需要を継続させる為に「石炭鉱業合理化臨時措置法」を昭和30年に制定していた。この趣旨は有望炭砿の助成・合理化・機械化の推進と、非能率炭砿の閉山という両面作戦であり、昭和37年にはスクラップアンドビルドと称した。
石炭会社は生産性を18t/人/月から35t/人/月に向上させたものの、炭砿労働者のストライキを許す業界の石炭供給不安定さに需要者の不信はぬぐえなかった。

 

雄別炭礦株式会社の動向

雄別炭礦を所有する雄別炭礦株式会社は東京証券所1部に上場している企業で、本社は東京で所有する炭砿は雄別炭礦のほか空知炭田の赤平市にあった茂尻炭礦・釧路炭田の音別町にあった尺別炭礦。白糠町にあった上茶路炭礦の4炭砿であった。生産規模は雄別が主力で、茂尻・尺別・上茶路の順番であった。
無配企業が多かった石炭業界の中にあって昭和42年(43年?)まで配当しており、石炭以外の多角化に成功した会社とした評価されていた。

昭和43年に雄別炭礦が石炭合理化事業団による調査が行われることとなった。この調査はビルド鉱を経営・技術・人事面から総合的に調査するもので「優良鉱のお墨付きがもらえる」と評価されているものであった。本社からの指令で全面協力することとなり、調査員を補助する調査補助員を社内各部門(採炭・掘進・電気・選炭・調査・人事・経理)から出した。調査補助員は1週間調査員から既存調査炭砿の調査内容や科学調査方式の歴史からIE手法まで、深夜まで学ばされ調査活動に入った。このHPの書類編その1の中にくしろさん提供のモラールサーベイ調査の一資料があるが、これも坑内で働く人の意欲を数字で表すための調査の一つであったが、良く残っていたものだと感心した。この調査により雄別炭礦の将来戦略が検討され始めた。

しかし昭和44年に茂尻炭礦で炭塵爆発により、30余名の死者を出す事故が起こった。これにより茂尻炭礦は閉山された。この影響は雄別にも影をおとした。

 

 

国の政策変更

政府の石炭政策が変わったのは昭和44年の石炭鉱業審議会の石炭政策第4次答申であった。再建交付金制度や安定補給金の充実をうたっているものの「一定期間に限っての特別閉山交付金」が最大の変化ポイントであった。
通産省は「なだらかな閉山を狙って」という表向きには答弁したが、閉山交付金に特別な増額、しかも企業ぐるみ閉山にはさらにもう一段の加算という「あめ」と同時に一定期間という「むち」まで備えた答申による石炭鉱業臨時措置法の改正は、それまでの開発意欲を損なうものだった。

現実に上記特別閉山交付金制度ができるまでは年間5000万トン以上あった石炭生産量は、適用終了とされた昭和45年末には3000万トン規模に減少し「なだれ閉山」をもたらした。それまでのスクラップアンドビルドではなく、スクラップアンドスクラップ状態に石炭業界がなってしまった。

 

 

雄別炭礦株式会社の自主解散と雄別炭礦

前述したように雄別炭礦は戦略的には北陽鉱区への進出、戦術的には自走支保などの採炭新技術により能率向上・コストダウンを図っていたが、雄別炭礦株式会社としては昭和44年の茂尻炭礦の事故とそれにともなう茂尻炭礦の閉山費用の負担により今後の生き方が迫られていた。

当時雄別炭礦に勤務していた私は
1.赤字の尺別・上茶路の閉山
2.上記に加えて雄別炭礦を別会社にし雄別炭礦株式会社は石炭以外の業務を集約する
のどちらかを模索するのではないかと感じていた。

しかし経営者は雄別・尺別・上茶路3山すべて閉山し、会社そのものを解散する道を選んだ。石炭業界の他社の生き方は石炭を捨て石炭以外で会社を継続する企業が多い中、このような大胆な方式にマスコミにも注目されると同時に、経済界に驚きをもって迎えられた。
通常なら会社更生法により管財人により再建の保全や債務の切捨てとか、破産なら破産法による保全という方法をとるところだが「自主」解散を選択したことは今もって謎である。

類推するに良く言えば、経営者は石炭を愛しすぎたのだろう。石炭維持のため石炭以外の収益を茂尻事故以降、石炭につぎ込んでしまたのだろう。多角化成功企業という看板を自らおろして、石炭以外で生き延びることを出来なかったのだろう。普通に言えば他の企業は冷徹に石炭の収益で多角化したものを石炭に還元せず、石炭を切り捨てるという経営者として当たり前のことをしているのに、何をしていたのだろうかとの評価をされても仕方ないだろう。特に株主はそう思うだろう。
いづれにしても企業ぐるみ閉山にあたるわけなので、閉山交付金の特別増額もあり閉山できたわけである。

閉山の発表があってからは本当に様相が一変した。雄別は釧路から50キロ内陸にあり雄別炭礦鉄道という石炭会社の鉄道により結ばれている。もともと原野だった鉱区に石炭会社らしく採掘に必要な会社施設、社員が住むための住宅、行政に頼らない病院・電気・水道のインフラの所有。さらに映画館・スーパー・宿泊所・宴会場・集会場所など、生活に必要な施設が敷地内にあることから、夕張や筑豊と違い公共交通機関は会社と運命をともに消滅してしまい、生活に必要なものも同時になくなるし、住んでいる住宅も取り壊されることから、次の再就職先が見つからなくとも、とにかく雄別から転居しなくてはならないわけである。ゆっくり再就職先を探そうなんて思っても会社が用意した鉄道代替バス(雄別バスはなくなるので阿寒バスをチャーター)と地域暖房の蒸気は3ヵ月の5月末でなくなるので、再就職もしくは転居先探しの情報収集に走りだした。労働組合の閉山反対運動下でも労働組合の力を信ずる人を除いてこの動きは加速していった。

多くの企業の採用担当が入ってきて、そこにはいろいろな悲喜劇があったが、自分のことよりも弱者の再就職を優先していた人を見るにつけ、こういうときに人間性が出るものだと感じ入ったものである。(このHP内のアサヒグラフ編参照)
いづれにしても上記のような土地柄もあり、閉山日以降、櫛の歯をぬくように転出していった。かくいう私も入居していた独身寮の蒸気が5月末でなくなることから、風呂がわかなくなるという軟弱な理由で閉山以降、清算業務に従事していたものの5月20日に雄別を後にした。

雄別に生まれ育った人にとり故郷がなくなってしまう事となり、その気持ちはいかばかりか同情するものである。

このようにして雄別の歴史とそこに住む人の生活は終わった。

そして人口1万2千名の雄別炭礦跡地は、いま静かな原野に戻った。 合掌