炭砿住宅(炭住)について

※炭砿住宅(炭住)の評価論文は、みわ氏に作成して頂きました。

 

世間一般の社宅は「福利厚生」の性格ですが、石炭企業や鉱山会社の社宅は福利厚生以外の性格を持っております(もともと同一の会社だったものが、戦後に石炭とそれ以外の会社に分割された会社が多く、三菱や住友など財閥解体により分離したものです)。

石炭企業は広い鉱区と土地を持ち企業内で生産拠点と社員の住宅を一体化させておりました。雄別炭礦(正式には雄別炭礦株式会社雄別礦業所という名前ですが、一般に通称雄別炭礦といっております。雄別炭礦株式会社(雄別のほかに茂尻礦業所・尺別礦業所・上茶路事業所を所有してました)は鉱区内に1万2千名の人口をかかえて、電気水道他のインフラ(川沿いに走る道道を除く)を持ってました。

いわば24時間の生産体制(坑内)で掘り出した石炭を選別し製品にしたてる選炭場・搬出する運送部門のほかに、これらを効率的に運用するための住宅を企業内に取り込んでいました。
以上のことを考えると石炭企業の炭住には次の3つの性格があると思います。

1、福利厚生の性格
2、生産工数確保の性格
3、給与としての現物貸与の性格

このHPの目次の募集案内にも書かれていますが
社宅料  100円
水道代   0円
電気代   0円
糞尿処理費 0円
浴場費   0円
石炭   400円(1t)
となってます。

このほかに詰所(他社では世話所という炭鉱もあります)とういう炭鉱ならではのものがあります。雄別の場合は炭住を6ブロックに分けて各ブロック内に一つ詰所が置かれていました。(鉱員が住むブロックだけで、職員が住むブロックには置かれていませんでした)

この詰所が炭住の管理・社員の出勤確保・住民の世話、即ち上記3点を担当しておりました。言い換えれば24時間家族を含めての管理をしているわけですから、詰所も24時間営業しているわけです。詰所には職員の区長、鉱員籍が3名(うち1名は坑内助手と同資格)区長のみ平常勤務で他が交代で24時間をカバーしてます。行政も炭鉱におんぶでだっこで、詰所を行政の連絡所として区長を連絡所長に委嘱してました(書類編その1参照)。盗難などがあったときは詰所が実質警察の下請けとなっていたと思います。
また詰所には集会所が併設されており、現在の地区会館や公民館の機能をはたしておりました。

このように社員からすれば欠勤や休暇は詰所に申請するし、住民としては何でも詰所に相談や届出ができるし、良く炭鉱をやめて釧路や札幌に移転した人はその生活に慣れるのが大変と言われます。よく言えば炭住に住んでいればゆりかごから墓場まで企業が面倒をみてくれたわけで、悪く言えば24時間コントロールされていたわけです。

炭住を建築としてみると、職員は役職資格により広さが違います(公務員と似てます)が、鉱員住宅よりも広いです。鉱員の炭住は家族人員により8×6×6、6×6×4,5、6×6×6、6×4,5などの間取りで1棟2戸、1棟4戸、1棟6戸などがありました。総じて雄別地区は(1区から4区)よりも人口が増えて、布伏内地区が新設(5区6区)されたため、布伏内のほうが新しい年代の炭住があり中層コンクリの炭住もありました。
私が入社した昭和40年代は住む人の意識も変わり6×4,5の炭住を2戸つなげて広くする改修も行っておりました。

2年前長崎県の崎戸町(現西海市)にあった三菱鉱業株式会社崎戸鉱業所を訪れました。役場の方に案内されたのですが木造炭住はきれいに公園に様変わりしましたが、5階建てコンクリ製(30戸や36戸)の建物は廃墟になっておりました(北野武監督のバトルロワイヤルの撮影現場)間取りは6×6×4,5と3Kでした。木造と違いトイレは水洗でした。
そもそも石炭会社の炭住は建築史上、進んでいたものが多いのです。三菱端島(軍艦島)は初の高層住宅として評価されていますし、昭和20年代に建てられた岩手県の松尾鉱業の社宅群も設計が優れているものとされております。

コンクリ製と異なり、木造の炭住はその長屋形式の外観から、現在は日本の産業を支えた一つとして産業遺産として評価が高くなってきましたが、木造であるがゆえに簡単に壊されるためか残っているものが少なくなってきています。福岡県大牟田市ではNPOの方々がボランティアでただ1戸残っていて朽ち果て様としていた職員住宅を改修し、見学用に残していると聞きました。
雄別では布伏内地区に残ってる炭住も行く度に朽ち果て解体されているのを見ると、残念でたまりません。