あかん2005年5月号

※広報あかん2005年5月号に、阿寒町M氏が寄稿されています。その元原稿を提供して頂きました。

 

<炭礦遺産>

雄別炭礦には、形に残る炭礦遺産は数少ない。阿寒町雄別に「雄別炭礦」と称する大手炭砿があった事実が「炭礦遺産」である。
雄別炭礦は、他の炭砿閉山との相違は、体力を残した閉山で、真面目な念入りな跡始末、閉山後35年の経過が物語る。
炭砿は政府の石炭政策に振り回され、石油に負け、現在では人件費の安い外国炭、資源量の豊富な外国炭にも負け、石炭産業、採炭技術は消えようとしています。
戦後復旧、農業・肥料・鉄鋼・炭砿に、政府は力を入れた。食料確保の農業、農業の為の肥料、工業の鉄鋼、肥料を作る石炭、鉄を作る石炭、石油の無い日本の暖房炭、特に石炭産業は手厚く保護された。
戦後の配給米は、国民1人1日2.5合の時代、炭砿は本人6合家族3合の配給米を受けた。一般の家庭では米2/3、麦1/3、食べ盛りの家庭では米と麦1/2を食べていたが、炭砿では米の飯を食べる事が出来た。

石炭”掘れ掘れ”増産命令、人員の増員命令。戦後の就職難の時代、雇用目的の増員で、機械化による増産は許されなかった。朝鮮動乱の特需景気は炭砿が作ったものである。
昭和30年代に入ると、日本経済も安定、石油を輸入出来るようになってきて、石油に負け始めた。当然、合理的な採炭をする為の機械化の推進であるが、機械化=人員整理である。戦後増産の為、機械化を出来ず、増員させられた事が原因の人員整理である。
資本力の無い小炭砿は次々と閉山したが、雄別は機械化が順調に進み、昭和39年には72万(t/年)、出炭能率50(t/月人)の優良炭砿となりました。

石炭産業は石油に完全に負け、炭砿は補助金無しで企業は成り立たなくなった。補助金は石油の輸入税を当て、石油の輸入と石炭の生産量は反比例する。つまり、炭砿を潰せば、石油の輸入は増えて補助金は増えます。

初期は小炭砿の閉山、小炭砿の閉山では足りず、大手炭砿の企業ぐるみ閉山の最初が雄別炭礦です。炭砿を潰し、その分の石油を輸入して、残った炭砿を保護する政策です。
昭和45年、会社側から突然の閉山提案、組合側は当然閉山反対ではあったが、結局閉山の条件闘争に移り、昭和45年2月に閉山に至った。
皮肉な事に、多額の負債を抱えた大手より先に、優良炭砿の雄別炭礦の企業ぐるみの閉山です。