4.リュック一つ背負って雄別を離れる

忘れもしない昭和45年2月27日に雄別炭礦は閉山しました。再就職が決まった者、次に住む家が決まった者から雄別を去って行きました。

私は独身であったことと、「親元に帰ってからでも就職活動をすればいいか」と、自身の就職活動をせずにいたことから、上司から説得されてしばらく清算業務をするため雄別に残りました。

清算のために東京の本社に送る資料作りや、再就職のための企業との打ち合わせや、指導や斡旋で多忙を極めたものでした。私の職場は課長と私ともう一人現在阿寒町に戻り住んでいる3名でした。

あれだけの人口が流出するのですから、混乱がいっぱいありました。例えば引っ越した家の庭の植木で良さそうなものを勝手に掘り起こし、トラックに積み込む植木業者。まだ住んでいる家の庭木を持っていこうとするのを注意すれば、退散するのですが真夜中に戻ってきたのか、住んでる人が朝起きてきて庭をみると持ち出されていたような混乱は日常茶飯事でした。

求人は一杯きました。しかし道内の企業には応募者が多いのに対し、本州方面の求人は大会社を中心に求人数は半端でなかったものの、応募者は当初は少なく会社が説得する状態でした。まとめ役をいち早く捕まえて、その人が「俺と一緒に行こう」と誘うやりかたをした企業が成功したようです。そういう会社のなかには釧路駅までバスを仕立てた企業もありました。一番派手だったのは広島の造船会社は自社の船を釧路港まで迎えにきたことでしょう。

閉山して1ヶ月近く経つと企業もだんだん引き上げていきましたが、閉山してから求人にみえる企業も後を絶ちませんでした。「もう遅いですよ」ともいえず、まだ就職先が決まってない人との面談を設置しました。今から思うとそういう企業のほうが良い会社のような思いを持っています。鷹揚なのです。

作業員、技能者、技術者の就職だけは予想以上に順調でした。高度成長に差し掛かるときで、今思うと再就職しやすかったと思います。しかしながら私のような事務屋のホワイトカラーは求人そのものが少なかったのでした。

そのうちに私に鉄鋼の電炉メーカーからの接触で東京まで面接に行ったことがありました。先方の考え方をきいて断りましたが職場の課長から「もったいない」と言われました。現在になってみると断って正解だったようです。

4月下旬ごろ、東京の本社に求人にきた会社がありました。もうその時点では先方の条件にマッチするのは雄別で清算業務をしている私だけしかいないということで、本社の人事担当課長が(想像するに)「こんな奴しか(残って)いません」と説明したところ、「そんな奴でもとりあえず会ってみましょう」(想像)となったようです。私は寮に帰った夜、電話があり「東京に行け」ということで飛行機の手配をしました。
前の電炉メーカーと違い、中途採用に対しても公平だったので、その会社から採用すると言われて入社を決意しました。工場勤務を希望しましたが、当面東京駅そばの丸の内勤務といわれて、実家から通えるので両親が喜ぶからそれもいいかと思ったものでした。その会社は私が入社してから地方に工場をいくつか建設しましたが、私が希望した工場勤務になったのは入社して10年以上経ってから、京浜地区から1000人連れて、ある県の新設工場に赴任したことによるものでした。

4月末に次の就職先が決まりましたが、清算業務の状況から5月末まで雄別で仕事をすることとし、次の会社には7月1日に入社することとしました。

自分がお世話になった人たちの再就職先の確保に目処をつけましたが、寮のおじさん・おばさんの再就職だけは高齢のためもあり、できなかったのが残念でした。雄別を離れる時、そのことを詫びると逆に背中をたたかれ力づけられました。

引越しの支度もしなくてはなりません。日通に依頼しました。当時は遠方だとトラック便ではなく国鉄輸送でした。当日寮に来たものは何と2トン積みのコンテナでした。大きすぎるのではないかと驚きましたが、家の荷物というのは5年間も経っていると凄い量になるんですね。2トンコンテナ一杯になりました。見積もりに来た人はやっぱり「プロ」でした。雄別にきてから買った机、本棚ぐらいしか家具はないのですが、大量の本がかさばったようでした。

異色だったのが「パチンコ台」でした。雄別にもパチンコ屋がありまして、台を入れ替える時に1台もらってきたものです。寮の私の部屋に置いて無聊を慰めていたのです。今のパチンコ台と違い、1台ごとに独立していて玉を左手で一発づつ指で入れる時代だったのです。中央下部にチューリップ(これが分かる人は中高年ですよ)がありました。ある時会社から寮に戻ると私の部屋からパチンコの音がするではありませんか。「又誰かが部屋に入ってきてやってるのだな」と、ドアをあけると、パチンコをしていたのは礦業所長でした。単身なので寮に入居していたのです。立場からすると雲の上の人ですから、こちらは気をつけの姿勢になりました。

(その時の会話)

所長 「お帰り。これよく入って面白いね」
わたし「玉が入るように調整してもらってきたんです」
所長 「雄別や釧路でパチンコ屋に入って噂になるといけないので自粛してたんだ」
わたし「よく分かりますよ」
所長 「勝手に入って悪かったけど又やりにきてもいいか」
わたし(駄目ともいえず)「どうぞどうぞ。私は友だちの部屋にいってますから」

(気をつけの姿勢をやめ、他の寮生の部屋に遊びに行く。所長は引き続きパチンコ。)

このパチンコ台は実家に一緒に戻りましたが、通勤時間朝1時間半・帰り2時間なのに加えて、残業も多かったので殆ど使いませんでした。

コンテナに積み込み、いよいよ雄別最後の夜です。寮の集会室兼麻雀部屋の布団で寝て、早朝釧路までのバスに乗り込みます。寮のおじさん・おばさんに別れを告げ、炭山駅前に向かいました。靴は登山靴、登山用のシャツとズボンに大型リュックを背に。バスは閉山後3カ月運行する阿寒バスです。5月末のことですから、これから乗るバスはあと僅かしか運行しません。バスを待っていると、清算業務を一緒にしていた職場の課長が見送りにきてくれました。ただ一人に見送られて雄別を離れました。もう北海道に来ることはないだろうと、札幌・函館に泊まり青函連絡船で青森に。青森・中尊寺と泊まって神奈川県の実家にたどり着いたのは5日目でした。既に雄別からの荷物は到着していて、母親の第一声は「パチンコ台が届いたよ」でした。

就職した会社で何度か札幌までの出張はありましたが、それは飛行機だったので、雄別を離れる時に乗ったあの青函連絡船乗船が最後の乗船となりました。閉山後雄別を訪れたのは閉山後25年たった時、帯広の関係会社への出張が月曜日だったので、土曜日に飛行機で釧路に行き雄別を訪れました。原野に戻っていて、住んでいた独身寮はコンクリの山しか残ってませんでした。呆然としました。若かった美青年(人生一度も言われたことはありませんが)も、その時52歳の高齢者に変貌して果ててました。

閉山後、京浜地区に居を移した職場の人達と、浦和のボーリング場でボーリング大会をし、その後宴会をしたとき、前述の課長から「独身は身軽だな、こいつはリュック一つで雄別を離れたんだ」と言われました。