報告事項

現在、当時の雄別の詳細を知っている方々のほとんどは高齢で、当時の記憶が薄れてきております。当時の資料(書籍・地図等)は残っていますが、実際に現地へ行ってみると不明な部分もあります。雄別出身の方々から聞いた話をつなぎあわせて現地を見た限りでの、現時点で判明している事・不明な事を、ここに報告します。

当時の雄別市街地の地図(昭和42~43年頃)

当時の雄別市街地の地図(昭和42~43年頃)

目次

判明していること

雄別関連会社に関して

菱雄

北海道の主要都市に××菱雄という会社がありました。三菱鉱業(株)・雄別炭礦(株)の石炭を取扱っている特約店です。地元資本による石炭販売会社で、石炭会社もお付き合いで若干出資したと思いますが僅かだったと思います。
戦後、昭和24年までは民間会社が自由に石炭を販売することは許されず、政府の外郭団体の公団(石炭販売公団・・名称は記憶なし)の担当でしたが、昭和24年にこれが解消されたのに伴い、石炭会社は自前で販売網を確立せざるを得なくなり、雄別炭礦は三菱と一緒に特約店網を築くため、地元の有力者に販売会社を作ってもらいました。名称は室蘭菱雄とか釧路菱雄とか地元の名前を付けました。
<確認出来ている道内各地の菱雄の現状>石炭からガス・ガソリンスタンド・不動産等に業態変更しています。
札幌菱雄・・・・・平成4年北菱株式会社と合併し消滅
室蘭菱雄・・・・・現存
帯広菱雄・・・・・現存
北部菱雄・・・・・現存
根室菱雄・・・・・現存
滝川菱雄・・・・・菱友と名称変更(一時期、滝川・岩見沢・江別等にスーパーを展開)
釧路菱雄・・・・・不明(釧路駅の駅裏の菱光がその名残?:未確認)
北見菱雄・・・・・(株)リヨーユウ石油と名称変更
函館方面・・・・・不明

 

永楽

雄別炭礦株式会社の関連会社には「永楽」という言葉の会社が多くあります。「永楽交通」「永楽タクシー(釧路・札幌・東京とそれぞれ別会社)」
これは雄別炭礦株式会社の本社が入ってるビルの名前を付けたのです。昭和39年まで東京の丸の内の「永楽ビル」が本社だったのです。なので、上記の関連会社は昭和39年以前に設立された会社と思います。

雄別炭礦株式会社の子会社であった「永楽ハイヤー」の正式名称は「永楽交通」です。永楽交通は東京、仙台、札幌、旭川、釧路とそれぞれ独立の会社で、そのほか東京には永楽観光自動車、永楽観光サービス、永楽観光バス(札幌)がありました。

 

購買

購買会(雄別商事)は営業時間が終了してから夜10時頃?まで、隣接する三畳位の建物で飲食類の商品を販売していました。販売人は請負だったのかどうかわかりません。

 

会社関連施設

雄別購買

雄別購買のシャッターの横に開いている大きな入口は、閉山後にオガ炭?の工場として使われていた時に開けられたものです。ちなみに大きな入口のある側は「裏口」で、駅側のシャッターがある側が「正面」です。昭和44年頃、屋上に「ローズ」というバーが開業しました。

雄別購買の名称については、「配給所」→「雄別購買会」→「雄別商事」と変わっていきました。雄別商事に変わっても、一般的には購買会と呼ぶことが多かったそうです。

 

詰所

各区には労務課に所属する詰所があり、所員が4名(区長・助手・係員2名)おり、その地区の社員の勤怠(欠勤受付他)生活の一切(葬儀まで)をみていました。
役場から連絡所の委嘱も受けていて、区長は所長や民生委員でもありました。また、消防団の班を構成していて区長が班長、詰所員と住民の6~7人(昼間の勤務の人)が班員でした。

 

料亭

閉山前、NHK釧路放送局の右側に、雄別炭礦の施設(料亭のような施設)がありました。正式名称は「雄別炭礦釧路倶楽部」という。

 

職員合宿

当時の職員合宿の内壁は白色。しかし古いため、くすんで灰色になっていました。閉山後、山荘として利用した時に2室を1室に改造し、壁は薄いピンク色に塗り変えられました。

 

修和寮

月見台の丘の上に、相当以前に「修和寮」がありました。相部屋になっており、100人近く住める様な状況だったようです。食堂があり、まかないのおばさんがいました。位置は、旭橋を渡って緩やかに上ってくると二手に別れ、左に行くと月見台、まっすぐ急な階段を40段ほど上がると修和寮がありました。

火薬庫の沢

雄渓平沢(ユケピラナイザワ)の奥に「火薬庫」と「雷管庫」が当時のまま残されています。当初は煙突の対岸に火薬庫がありましたが、坑口に近い場所が良いとのことで、雄渓平沢へ移されました。ここの沢は通称「火薬庫の沢」と呼ばれていました。

 

進発所

進発所に設置されたテレビで、月面着陸の放送も見られていました。

 

健保会館

健保会館の地下はシャワールームになっていて、1階は剣道場・柔道場として使われ、2階にはダンスホールがありました。その他レクリエーション等も行なわれていました。

 

学校関連

雄別小学校

雄別小学校の校門があった場所に、丸い穴が残っています。現在、雲悌はありません。百葉箱のあった真下あたりに、丸い木の土台のようなものが一つ残っています。

 

教員住宅

雄別小学校の教員住宅は3区末広町5丁目だけではなく、山の手1丁目(阿寒町が建てた住宅4棟8戸)・緑ヶ丘3丁目にもありました。末広町5丁目には校長住宅、教頭住宅のほか長屋に6~7名ほどの先生が住んでいました。独身の先生達の共同部屋もありました。
雄別中学校の教員住宅は、昭和37年の卒業文集より、横山市街9名・山の手5丁目共和寮7名・山の手1丁目1名・1区緑ヶ丘1名となっています。

 

職業訓練校

中学校卒業者を採用して直接坑内員を養成するために、職業訓練校が設けられました。昭和39年4月1日に砿員養成所として発足させたもので、昭和40年2月5日職業訓練法に基づき北海道知事の認可を受けて職業訓練校となりました。先生は全て雄別炭礦の社員で、3年制(1学年20名くらい)でした。場所は労務課事務所内(労務課事務所の隅に教室を作っていました)にありました。訓練生は、午前中は北進昇の訓練生専用現場で坑内実習、午後は学科授業をしていました。この職業訓練校の正式名称は「雄別礦業所 職業訓練所」です。

 

 

石炭時報第4巻

1929年石炭時報第4巻に北海道の炭鉱が写真入りで紹介されています。雄別炭礦株式会社雄別礦業所の鉱区は「18,749,940坪」とあり、そのページに載っている他の北海道の炭鉱の中で最も広い広さでした。1929年のことですから、写真に写ってる場所は当時の中心「炭砿病院の下の部分」です。

 

林道

中間駅付近の通称「蛇沼の沢」から林道があり、ズリ山の裏(西徹別側)に通じていました。

 

 炭住

社宅の住人

雄別の社宅は「雄別炭砿・雄別鉄道・雄別工作所・雄別商事・雄別興産・雄別林業・その他」の関連企業全員が住んでいました。

 

公共インフラ

NHKのアンテナ

NHK釧路がテレビ放送を始めると、雄別でも良く見える場所がありましたが、限られた場所でした。
ズリ捨て山に8素子のアンテナとブースター(真空菅式)が設置され、索道搬器(バケット)の折り返し所へ昇る木製階段に沿って、途中に中継アンプがあり、下に降りてから分配され、途中何箇所かアンプ・分配され、社宅各戸でゴーストの無い画像が見られました。末端の社宅で画像が良くない所もありました。
この階段は戦時中よりも前からあり、上で働く人達が使用していました。1000段位?もっとあった?
(※管理人注釈:NHK釧路テレビジョン放送所ができたのは、昭和34年。)

 

墓地

当時の雄別に墓地はありませんでした。殆どの人は、お寺の骨堂に納骨するのが一般的でした。墓を作る人は、阿寒本町の墓地に埋葬しました。(※6区鶴ヶ丘の通りをシュンクシタカラ川に沿って西に行くと、道路の右側に墓地がありました。そのほか横山付近にも墓地があったとのことです。)

 

かよい橋

布伏内地区に炭住が出来たので、通勤のために「かよい橋」が作られ、古潭駅と雄別炭山駅の中間にプラットホームで乗降りできる駅を作ったので、通称「中間駅」と呼ばれた。その後、真澄町にも社宅が出来て、真澄人道橋とプラットホームが作られた。

住所

当時の雄別・布伏内の住所には「阿寒郡阿寒町雄別(炭山)(○○○)番外地」というように、「番外地」が入っていました。(※登記簿上の地番と住所(通称名)が違う場合もありますので、後日詳しく調査してみたいと思います。)

 

紙幣

当時、流通していた紙幣は5千円札が主でした。1万円札は郵便局等でなければ手に入りませんでした。

 

 

下請け会社

古川興業

雄別支所の辺りに古河興業の事務所があり、後に3区から徹別へ抜ける道道の橋(青葉橋)を渡り、左側の総合グランドの奥の青葉寮へ移転しました。古川興業は雄別炭礦の坑内の下請け会社でした。

 

商店・飲食店

ミルクホール

ミルクホールのメニューには、あんドーナツ・ホットミルク・ココア?などもありました。経営者の加藤さんは、閉山後に現在の石狩市花川で食堂を営んでいました。ミルクホールの隣の小川(旧本坑坑口跡から流れてきている明渠)を挟んだ所に、雄別消防団の消防車の車庫があり、消防技能大会の時にはこの消防車を操作します。その隣が組合事務所となります。

 

飲食店の名前

横山にあった「獨酌(どくしゃく)」は、以前は「ムーラン」という店名でした。栄町(1区)にあった「音羽食堂」は、その後「レスカ」という店名に変わりました。

 

1区の商店

雄別支所の斜め向かいに高橋商店がありました。1区詰所前角で駅側本屋に寄った方で、親父さんが時計修理販売を行っていました。1区詰所側を奥さんが菓子・パン・ジュース等を売っていました。
1区詰所に面した角の柱に「イズヤのパン」の看板が取り付けられていました。

 

お菓子屋さん

古潭駅のホームの山側にお菓子屋(もち屋)さんがあり、正月等に雄別中学校の生徒さんが運ぶのを手伝っていた(アルバイト?)ようです。

 

矢幡製麺所

矢幡製麺所(やはたラーメン)の外観はモルタル2階建て。普通のガラスの引き戸を開けるとほぼ正方形の室内、テーブルが4つか5つあり、左側がカウンタ、その奥が調理場でした。製麺所とあるようにラーメン屋としてだけではなく製麺して卸していましたので奥に製麺の機械がありました。生活は2階でしていました。昭和30年~33年に火事で消失し、一時修和寮に住んでいたとのことです。

 

鉄道関連

新雄別駅

5区にある新雄別駅は、通称「中間駅」と呼ばれていました。5区は1棟2戸の炭住が多かったそうです。新雄別駅前にあった「かよい橋」の橋脚のみが、今も残っています。

 

通勤列車

通勤列車は、阿寒高校・雄別中学校の学生にも利用されていました。通勤列車の座席は、男子生徒・女子生徒の座る場所が決まっていたようです。

雄別炭山~古潭間の通勤列車は、閉山までDCではなくSLでした。雄別炭山駅の3つのホーム以外に通勤列車専用のホームがあり、客車はこのホーム(運行されていない時)には常に入っていました。通勤客は自由に(無料で)乗り降りできました。古潭から雄別炭山へ帰るときはSLを先頭に移動せず、バックで客車を押し上げた時もありました。

 

雄別炭山駅

雄別炭山駅は子供達にとって遊び場でした。停車中の列車に自由に乗り降り出来て、冬は車内にダルマストーブがあるので暖かかったそうです。
(※管理人注釈:ディーゼルカーではなく、通勤列車ではないかと思われます。)

 

駅名

昭和20年代の雄別炭礦鉄道の駅名は、雄別炭山・古潭・舌辛・湯波内・穏袮平・平戸前・鳥取信号所・新釧路・釧路である。その他、通勤列車専用の真澄町停留所・中間駅(新雄別)がありました。

 

炭砿と鉄道館

現在の「炭砿と鉄道館」が建てられたのは昭和62年で、このときにSLも移動したようです。

急行まりも

当時の「急行まりも」(SL)は、カロリーの高い雄別炭礦の石炭でなければ、狩勝峠を登ることが出来なかった。

煙の色

SLの煙は「黒い煙」が上がると、カメラマンは良い写真が撮れると思うのですが、「黒い煙」は石炭を投炭し過ぎて酸素不足になっているために黒くなるのだそうです。実は「黒い煙」は機関助士の投炭が下手だという事が分かってしまうのだそうです。

 

最終貨物列車

新釧路駅発の最終貨物列車(SL)は、阿寒駅までノンストップで走る。阿寒駅で雄別からの最終列車(DC)とすれ違う。

 

機関士の座席

国産のSLの機関士の座席は左側ですが、外国製のSLには右側のものもありました。SLは右カーブに差し掛かると機関士側からはボイラーが邪魔になり右前方が見えないので、「前注意!」と声がかかると機関助士は投炭作業を止めて右前方を確認します。右カーブが終わると「前良し!」と声がかかり、機関助士は再び投炭作業に戻ります。

 

C11 1

「C11 1」は、昭和22年4月に日本車輌で製造(製番1473)され、江若鉄道(こうじゃくてつどう)から雄別鉄道へ譲渡されました。その後、昭和33年に釧路臨港埠頭へ譲渡し、現在は江別のY氏の個人所有となっています。

 

C11 65

「C11 65」は、昭和10年に川崎車輌で製造(製番1533)され、昭和36年2月に国鉄高岡機関区で廃車。同年12月に雄別鉄道へ譲渡されました。雄別鉄道廃止後、昭和45年5月15日に元阿寒駅構内へ運ばれ、現在「炭砿と鉄道館」に静態保存されています。

 

C11 8

「C11 8」は、昭和17年6月に日立製作所で製造(製番1260)され、昭和27年に松尾鉱山鉄道から雄別鉄道へ譲渡されました。

 

C11 3

「C11 3」は、昭和7年に汽車製造会社で製造(製番1176)され、昭和39年8月31日に国鉄吉塚機関区で廃車。翌年の6月に雄別鉄道へ譲渡されました。

 

C11 127

「C11 127」は、昭和13年に日本車輌で製造(製番562)され、昭和37年6月13日に国鉄岩国機関区で廃車。翌年1月に雄別鉄道へ譲渡されました。

 

SL 9046

「9046(美唄鉄道1号機)」は、大正7年にアメリカ・ボールドウィン社で製造され、美唄鉄道から雄別鉄道へ譲渡されたSLです。昭和38年に廃車、解体されました。

 

SL 8721

「8721(8700型)」は、明治44年イギリス・ノースブリティッシュ社で製造され、昭和25年1月に国鉄で廃車、昭和27年3月に雄別鉄道へ譲渡されたSLです。

 

SL 103

「103(100型)」は、大正13年7月にドイツ・コッペル社で製造されたSLです。(※102・103(C140型?)は茂尻砿で使われていたようです。昭和45年4月16日新聞記事に書かれています。阿寒町公民館内の図書館にあります。)

 

YD1301

雄別鉄道埠頭線用として昭和41年に「YD1301(DD13型)」が導入されました。雄別鉄道廃止後は、釧路開発埠頭鉄道(新富士~西港間)へ譲渡され「KD1301」として使われていました。釧路開発埠頭鉄道廃止後は、太平洋石炭販売輸送に移籍「D801」として使われています。

 

SL 205

「205(200型)」は、大正13年にドイツの「オレンスタイン・ウント・コッフェル社」で製造され、大正14年にドイツの「オットライメルス社」から買い入れたSLです。雄別鉄道廃止後、ノーベル書房から展示したいという申し出があり、東京の銀座へ送られました。その後、東京西部デパートで競売され、埼玉県川越市の角栄幼稚園に展示されました。1985年ころ解体されたようです。全長8.166m、自重24.59tで、ブレーキは圧縮空気ではなく蒸気を使うSLでした。(※昭和45年4月8日新聞記事に書かれています。阿寒町公民館内の図書館にあります。)

 

関東鉄道

雄別鉄道廃止後、DC(ディーゼルカー)6両は、昭和45年7月29日付けで、茨城県の関東鉄道㈱へ売却されました。関東鉄道の筑波線が1987年に廃止された後、DCは廃車されました。

 

 

SL 8722

「8722(8700型)」は、明治45年に汽車製造会社で製造され、昭和24年に国鉄で廃車、昭和28年6月に北海道拓殖鉄道へ譲渡、昭和32年7月に雄別鉄道へ譲渡されたSLです。現在は釧路製作所に保存されています。

 

転車台

煙突の斜め後ろに、SLの向きを変える転車台の跡があります。半分瓦礫に埋もれていますが、輪郭はわかります。

 

旧雄鉄ホーム

JR釧路駅の旧雄鉄ホーム(6番ホーム)に続く地下道に、まだホーム案内板が残っています。

 

 

坑道に関して

坑口跡

現在、坑口跡を確認できているのは、雄別通洞(火薬庫の沢)・旧本坑(一坑)・大祥内坑・中央風洞・大祥内片盤坑口・堤沢新斜坑・堤沢総排気群(堤沢総排気坑口・堤沢総排気人道坑口・堤沢総排気風道坑口・二卸入気坑口)・北進昇(北進昇総排気人道抗口・北進昇ロープ坑道抗口・北進昇総排気坑口)・奥雄別中部(中部斜坑連絡坑口・中部斜坑本卸坑口)・中の沢坑・新二卸または苔樋坑(排気扇風機坑・人坑)・然別炭礦(村井炭礦)の坑口跡です。坑口跡が残っていない事が確認できているのは、大祥内二坑・北進昇人抗・村井炭礦大曲坑・然別坑です。一斜坑(一斜坑風道昇坑口)・奥雄別西部立入(西部向掘坑口)は木枠であり、坑口の跡は確認できていません。

 

一斜坑

一斜坑の排気坑口を外から見ると、右頭上に、排気管にシロッコ型の排気扇風機が付いていました。左側に木製のくぐり戸(風門)があり、横80cm・縦160cm程ありました。坑外は幅4m程で3m位先(数m先?)は谷でした。

 

新二卸

一斜坑の抗口・大祥内二抗の抗口は、完全に潰れて発見は困難な状況。「新二卸」は坑外に出れる抗口はありましたが、北進昇で排気していたので扇風機はありません。

 

地名

蛇沼の沢

新雄別駅(中間駅)の近くにある「ペンケナイ沢」は、通称「蛇沼の沢(じゃぬまのさわ)」と呼ばれていました。

 

末広町

3区(末広町)は、雄別の田園調布と呼ばれていました。

 

 

NHKのど自慢

雄別で開催された「NHKのど自慢」の開催日は昭和27年9月14日(日)です。阿寒町開基65周年記念にあわせて開催されたようです。

 

 

 

三菱金曜会

雄別炭礦は三菱金曜会(三菱主要会社?が加盟)に入っていて、東証1部の会社でした。

 

救護隊

救護隊は、坑内員の係員で構成されています。救護隊長・班長・班員・班編成が組まれており、定期的に救護訓練を行います。

 

索道

戦前、浦幌町側から尺別炭山までの移動手段として、ズリを捨てる索道が使われていました。浦幌町側から行くときは空のバケットに乗り、尺別炭山側から帰るときはズリが入ったバケットの上に乗り、移動したそうです。

 

原野の神社

尺別線の八幡前駅の神社は「原野の神社」と呼ばれていました。近くの小学校も「原野の学校」と呼ばれていました。

 

選炭

炭車は選炭場入口のチップラーで1回転させて、石炭・ズリをポケットに空けます。ポケットからコンベアーで選炭場内部へ、選炭作業が追いつかない場合は原炭貯蔵庫へ。選炭後、石炭は積み込みポケットで貨車積み、ズリはスチールベルト(ズリベルト)で裏山のズリ山へ。ズリ専用チップラーは、ポケットから、コンベアーで直接ズリベルトへ。

 

バスの車輌

閉山後、阿寒湖温泉の○○ー○○ホテルで、雄鉄バスの車輌が使われていました。

 戦前のズリ

出炭量を上げるため、戦前のズリを再び選炭する作業が行われていました。

 

 

豆炭

当時、各戸に配られていた燃料炭は、豆炭である。

 

印鑑証明

雄別炭砿では、独自に従業員の印鑑証明を発行しておりました。給料の受領(詰所で)などに使われ、雄別以外では通用しませんが、雄別内では役場の発行する印鑑証明より重要でした。砿員の給料日は10日、職員の給料日は15日?だったと思います。

 

しいたけ栽培

4区の空き社宅を利用して「しいたけ栽培」が行われていました。労務課が担当していました。(昭和40年代)

 

サイレン山

雄別小学校の上(3区)にあった山の名前は「サイレン山」と呼びます。サイレン山の頂上にはサイレンが設置されていて、定時(1番方・2番方・3番方の交代時間・正午)になると「ウー」とサイレンが鳴っていました。サイレン山以外にも何カ所かサイレンがあり、雄別・布伏内の何処にいてもよく聞こえました。

 

新町の詰所

4区詰所の川の対岸にある新町の詰所は、詰所の分室(事務所)ではなく、新町の各戸の石炭ストーブの燃料炭を配る場所でした。川の両岸に石炭を運ぶレール(インクライン?)がありました。

 

石炭輸送

石炭輸送は、雄別線本線→鳥取側線→国鉄→埠頭線と運搬していた。鶴野線の敷設により、国鉄を横断して雄別→北埠頭まで自社で運盤出来るようにしました。

 

運動会

昭和33年頃、会社経費節減の為に会社行事(運動会など)は中止されました。昭和41年ころ再開されました。運動会は雄別中学校のグランドが使われ、仮装パレードも行われていました。

 

消防団

雄別消防団の消防隊員は、坑外系の社員で構成されていました。

 

入坑の制限

坑内従事は法律で18才以上の男性と決められています。18才未満・女性は入坑出来ませんが、坑内実習・見学・人命救助は例外です。坑内事故等の場合の看護婦さんは入坑出来ます。

 

 

新釧路貯炭場

新釧路貯炭場が釧路川の元日東化学工場の対岸(新釧路駅近く)にあり、ここから艀で沖積みも行われていましたが、昭和30年頃次第に使われなくなり、わずかに貨物船の燃料用に雄別塊炭が荷役されていた。

 

東栄炭砿

1993年北海道通商産業局発行「北海道の石炭」に、村井建設木材工業㈱で採炭していた「東栄炭砿」の所在地が阿寒町となっていますが、白糠町の間違いである。

 

テレックス

当時導入された「テレックス」は、各場所を繋いで通信料節約と記録性を考え導入したと思われます。OKI製でオルガンくらいの大きさのタイプライタですが、カナ文字が主で漢字はほんの補助でしかなく、非常に読みづらいものでした。6単位の紙テープを繋げば、自動送信や電算のデータ入力にも使えないこともないのですが、信頼性から使用した事はありません。

 

モラルサーベィ

当時実施された「モラルサーベィ」は、炭砿の従業員の勤労意欲の調査を目的にして石炭鉱業合理化事業団が、雄別IE主任調査官2名・三井鉱山砂川より2名が來山し、雄別の約1,500名を対象として、年齢別・勤続年数別等に各々数拾項目のアンケートを実施したものです。「FACOM-230-10」でプログラミングされました。

 

FACOM-230-10

雄別炭礦株式会社は「FACOM-230-10(富士通)」の3番目のユーザーでした。昭和41年7月、道銀ビル(釧路営業所)に設置され、職員給与は8月分より実施しました。主として「職鉱員給与、原価計算、一般会計」が目的でした。コンパイラはフォートランもありましたので、技術計算も可能なマシンでしたが、そこまで出来ないうちにオシャカとなりました。子会社の給与も遠くは札幌永楽ハイヤー、外部の委託では阿寒町住民税の個人通知票(確か43年度分)も作成しました。兎に角、炭鉱賃金体系の複雑さには泣かされました。ちなみにこの機種は釧路市内では臨港鉄道・鶴屋デパート・釧路信金が導入したと記憶します。「紙テープ」で打ち出されました。「230-10」は当時の企業用のビジネス用コンピューターで、当時としては大型コンピューターでした。これが大ヒットして富士通は国産計算機メーカーの地位を築いた商品でした。

 

保安塔

雄別礦業所の前にある鉄塔の名前は「保安塔」である。

 

総合ボイラー

総合ボイラー(総合煙突のある場所)で商品にならない不良石炭を燃やし、各地区へパイプで暖房用の蒸気を送っていました。各地区にある「浴場」もこの蒸気で沸かし、雄別の浴場には「煙突」がありませんでした。

 

 

山神祭の担当

山神祭は各区が当番制で祭りを担当してました。各区の詰所の裏手には30~40人ほど入れる集会所がありました。

 

雄別民謡同好会

昭和23年に「雄別民謡同好会」が結成されました。

 

炭礦の管轄省庁

炭礦の管轄省庁は、色々特殊事情があり複雑な事項が多いため、通産省にまとめられていました。

 

水じょっぴん

雄別小学校の下の道(現在の道道)の坂道で雪解け水を堰き止めて遊んだり、グランドに溜まった雪解け水の流れを堰き止めて遊ぶ「水じょっぴん」または「水じょっぺん」という遊びが子供達で流行っていたようです。

 

桟橋

雄別通洞から選炭場までの間に、桟橋がありました。坑木運搬レールはその桟橋を潜っていました。

 

5区保育所

5区保育所の下の方にシュンクシタカラ川がありました。夏は川をせき止め水泳場にしていましたが、昭和42年前後、布伏内小学校にプールができてなくなりました。保育所の前には、結構広いグランドがありました。

 

5区集会所

5区集会所は「会館」という呼び方をしていました。映画の上映のほか、遊戯会、学習発表会等が行われていました。閉山後に民間のマッチ工場になりましたが火事のため焼失したようです。会館の正式名称は、布伏内中学校閉校記念誌に載っている 昭和40年頃の古潭地区市街図に「協和会館」と記載されています。

 

5区保養所

5区保養所の前には、「シーソー」「うんてい」「ジャングルジム」「回転系の遊具」「ブランコ」がありました。このブランコを過ぎると川に下りて行く道がありました。現在の川へ下りる道は、下の方が若干崩れていますが、下りることは出来ます。保養所の正式名称は、布伏内中学校閉校記念誌に載っている昭和40年頃の古潭地区市街図に「健保保養所」と記載されています。

 

出炭掲示版

雄別礦業所の正面玄関の向かい側に、前日の出炭表示等が掲示された「出炭掲示版」がありました。

 

 

用語の発音

5区の「新緑町」は「しんみどりちょう」と発音する。「曙町」は「あけぼのちょう」と発音する。
「花吹町」は「はなぶきちょう」と発音する。
「友子制度」は「ともこせいど」と発音する。
「山神祭」は「さんじんさい」と発音する。
赤平市の雄別茂尻礦の「茂尻」の発音は「もじり」が正しい。
「大祥内」は「おしょない」と発音するのが正しい。

 

中国へ出向

戦時中、政府命により三菱から中国「淮南砿業所」に幹部職員を含む数十人が出向しました。雄別礦業所(当時の三菱砿業)からは2名が出向しました。中華人民共和国の淮南(「ホアイナン」と発音する)の位置は、上海市から西方に江蘇省を隔てて安徽省のほぼ中央にあり、そのあたりにあった炭礦と思われます。

 

花見

桜の開花時期には、桜田で花見が盛大に開かれました。雄別~桜田の列車は客車に全員乗りきれず、貨物列車に無料で乗ったそうです。

 

ペルツナイ沢

「ペルツナイ沢」は、当時「水車の沢」と呼ばれていました。「錦沢」は、当時「本坑の沢」と呼ばれていました。

 

浴場

雄別の各浴場は、自由に(無料で)入ることが出来ました。

 

記念碑

記念碑の裏側に、協賛者の名前が書かれています。雄別に直接関係のない法人名もあるようですが、何らかの形で雄別に関係があるのでしょう。

 

村井炭礦

4区(新町)に住んでいた人は、村井炭礦で働いていた人が多かったようです。
「然別坑」と「大曲坑」は、横山にあった「村井建設木材工業㈱」(村井炭礦)が採掘していました。

 

グッピー

当時「雄別炭砿講買会製氷所」で、千円札に面かれているタンチョウの絵で有名な写真家の林田氏が働いていました。林田氏が働いていた時期の店名は「グッピー」ではなかったとのことです。グッピーという店名になったのは、昭和42年頃です。

 

冷蔵庫のCM

白く塗られた「1001(C56型)」は、当時の「日立冷蔵庫」のTVCMに使われました。白い機関車の後ろに白い台車を連結して、その台車の真中に真っ白の扉の冷蔵庫を1台乗せて疾走するCMでした。JTBキャンブックス「遥かなりC56」塚本和也著「C56の空襲被害」に昭和20年7月14日(舌辛~湯波内間)の被弾の件が触れられています。このときの銃撃の痕は最後まで残っていたそうです。「1001」は、三菱重工で昭和16年2月に製造され、自社発注したSLです。(※阿寒町公民館内の図書館にある「思い出の雄別鉄道~廃止から30年」という本には「洗濯機のCM」と書かれていますが、冷蔵庫の間違いです。)

 

コンベア

ズリを運ぶ「ロープウェイ」を「索道」という呼び方をしていましたが、昭和42年ごろ「スチール製のベルトコンベア」を敷設後、このコンベアの呼び方は「コンベア」「スチール・ベルト」「スチール・ベルトコンベア」「ズリベルト」等いろいろありました。中には、コンベアを「索道」と呼ぶ人もいたり、コンベアに沿って登る道を「索道」と間違って呼んでいた人もいたようです。

スチール製のベルトコンベア(ズリベルト)に沿って、ずり山まで登れる道には、人が通れるほどの道幅が残っています。当時は木の階段と手すりがありましたが、現在は木片をわずかに見ることが出来ます。頂上の少し手前の急斜面は、足場がなく登れなくなっています。

 

道道徹別原野雄別停車場線

(昭和34年当時)3区5丁目の川向こうの山の上(西徹別へ行く道道徹別原野雄別停車場線)では、発破で山を崩して道路を作る工事が行なわれていました。この道路の雄別小学校の下の部分は既に完成していました。※当初は道営の農道事業として工事され、完成後に、道道に昇格しました。

 

ドジョウ捕り

(昭和34年当時)雄別小学校の下の川(3区[末広町]5丁目付近)では、子供達が川でいかだ遊びをしたり、どんこ、ドジョウ捕りをして遊んでいたそうです。

 

総合グランド

(昭和34年当時)総合グランドでは、阿寒高校の野球の試合も行われていました。

 

橋の名前

緑ヶ丘町へ行く橋の名前は「緑橋」です。月見台へ行く橋の名前は「旭橋」です。新町へ行く橋(水道管のある側の橋)の名前は「ときわ橋」です。総合グランドへ行く橋の名前は「青葉橋」です。

 

作家 渡辺淳一

炭砿病院に、作家の「渡辺淳一」が整形外科の医師として来ていました。渡辺淳一の主な作品に「阿寒に果つ」「死化粧」「光と影」「化身」「湖畔幻想」「麻酔」「失楽園」等があります。渡辺淳一が雄別にいた年代については、昭和34年~37年にかけて3回短期出張で来ています。また、「廃礦にて」という作品の中で、雄別に来ていた時の出来事や、建物・施設等が描写されています。当時は「職員合宿」に住んでおり、そこから病院へかよっていました。「白夜(Ⅱ朝霧の章)」という作品にも、雄別に来ていた時の出来事が書かれています。「マイ センチメンタルジャーニィ」という作品には、閉山から30年以上経ってから雄別を訪れた事が書かれています。

 

心臓破りの坂

道道の布伏内の外れに「心臓破りの坂」と呼ばれていた坂がありました。その由来については、当時、古潭から雄別までの間で駅伝(マラソン)が行なわれていた為で、現在は道道の拡幅工事で多少なだらかになっています。

 

旧炭砿病院

炭砿病院はもともと現在の場所にはなく「緑ヶ丘」にあり、その後現在の場所に移されました。戦前には、現在の炭砿病院の前(旧本坑から選炭場まで)にレールが敷かれており、その下には大曲選炭場までレールが敷かれていました。戦前の炭砿病院の前には2系統の鉄道があったことになります。

 

土俵

土俵の位置は、健保会館の前(斜め後ろ)です。四角形に盛土されている場所です。

 

住友鉱業

奥雄別中部斜坑の西側に、住友鉱業の鉱区がありました。炭層は薄く炭質もよくない場所で、そこまで掘り進めるのに3年かかるようでした。住友鉱業側は国が許可するなら掘っても良いとのことでしたが、本格的に採掘する前に閉山となりました。白糠町または飽別へ掘り進めることを計画していましたが、どちらも鉄道を引くのに十数億円かかるので無理となり、住友鉱業の鉱区へ掘り進めることになったそうです。

 

露天掘り

石炭の露天掘りがされていた場所(北進地区)は、大曲の先にある林道から行けます。ただし、林道から下に降りる道がないので、上から見おろすことは出来ますが、現場に近づけません。

 

地区の通称

雄別には通称名等の地名がありました。北側から・・・大祥内、大曲、4区(錦町・新町)、3区(末広町)、2区(旭町・月見台)、1区(本町・宮の下町・栄町・緑ヶ丘・睦)、山の手町、横山、真澄町、5区(新緑町・花吹町・曙町・相生町)、6区(鶴ヶ丘)。※大祥内と大曲については戦前に採掘されていた地区で、その後は誰も住んでいません。1~6区と分けられているのは、労務課の詰所(出張所のような所)があり、砿員住宅のあった地区を表します。山の手町と真澄町は、職員(管理職)住宅があった地区です。横山は雄別砿業所の施設がない地区で、飲食店街がありました。雄別砿業所の施設がある地区には、指定商街がありました。

 

大曲選炭場

大曲選炭場のあたりは、大雨災害のあった時に河川改修がされています。この少し先にあった大曲坑の坑口が川に接していた為、大雨が降ると危険になるので、山を削って川を直結して滝のようにしています。滝の正面にある道路の沢側に、大曲選炭場のコンクリートの土台の一部が残っています。

 

 

 

 

不明なこと

釧路市鶴野付近で、雄別鉄道(本線)と鶴居簡易軌道が並行して走る場所があります。雄別鉄道の列車の速度は58km/h。先に雄別鉄道の列車が追い越して、後から鶴居簡易軌道の列車が、雄別鉄道の線路を横断します。鶴居簡易軌道の当時の時刻表・列車の速度をご存知の方、いませんでしょうか?

 

中の沢坑の坑道が、旧雄別通洞とどのように繋がっていたのか。また、中の沢坑の坑口に対して直角に扇風機?が配置された理由がわかりません。昭和何年まで使われていたのか(戦前であることは確かです。)わかりません。

 

農民詩人「猪狩満直(いがりみつなお)」さんが、昭和4年11月29日から昭和5年4月までの積雪期に、雄別炭砿の然別選炭場(洗炭機の運転)で働いていたようです。どなたか当時(選炭場で働いた時期)の詳細情報をお持ちの方、いませんでしょうか?

 

昭和30年代まで「雄別炭砿節」という歌がありました。労働組合のメーデーの時に協和会館で唄われたり、各区の詰所での催しでも唄われていました。その後、唄い継がれなかったのか、昭和40年代には唄われる事はなくなったようです。「雄別炭砿節」は通称「ヒゲさん」が何かの民謡の替え歌を作り、駅の名称から坑道の名称まで入ったものでした。どのような歌だったのか、憶えている方はいませんでしょうか?。ちなみに「ヒゲさん」はNHKのど自慢に出場しましたが、合格ではなかったとのことです。

 

村井炭礦で採炭した場所の坑道図をお持ちの方、いませんでしょうか?

 

横山の飲食店街の配置、お店の配置図、憶えている方いませんでしょうか。

 

閉山後、雄別炭礦にあったボーリング調査等の資料は、道教育大釧路分校の地学教室、岡崎教授へ渡されました。現在もその資料が残っているかどうかは、まだ確認していません。(※昭和45年4月21日新聞記事に書かれています。阿寒町公民館内の図書館にあります。)

 

北進昇(ほくしんのぼり)と呼ばれている坑道は、陥没したことがわかっています。閉山後、昭和45年4月にセスナ機が飛んで、陥没が発見されました。国から借りていた土地を返すにあたり、陥没箇所を会社側で整地して、そこに植林したそうです。ですが、その正確な場所がわかりません。苔樋の沢や、北進地区周辺から見える範囲には、陥没したような箇所がありません。おそらく北進昇全体ではなく一部分ではないかと思います。北進昇の中間部分については、現地に行く道がわからないので確認できません。坑道の陥没箇所については、北進昇以外の浅い坑道についても陥没があり、全ては把握できていません。

 

大曲選炭場の付近に、大祥内へぬける隧道(トンネル)があったらしいのですが、正確な位置は不明です。

 

大曲の変電所から200~300m南(川の対岸)に冷泉が沸いていた場所があり、それを沸かした温泉施設があったそうです。この冷泉は、十勝沖地震(昭和27年3月)のときになくなったそうです。正確な位置が不明です。

 

大祥内地区は戦前に採掘された地区で、当時の地図は下の2枚が残っています。その後、大曲選炭場付近の河川改修・砂防ダム工事等で、現在と川筋が多少変わっています。戦後は誰も住んでいない地区で、当時の写真はほとんど残っておらず、今となっては詳細を調べる手段がありません。

 

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大祥内の学校の正確な位置がわかりません。大祥内の炭住・学校へ行く橋が落ちていて、現地へは歩いて行く方法しかなく、車では入って行けません。コンクリートの土台のようなものは周辺に残っていますが、今となっては何の建築物だったのかは不明です。