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炭砿住宅(炭住)について

世間一般の社宅は「福利厚生」の性格ですが、石炭企業や鉱山会社の社宅は福利厚生以外の性格を持っております(もともと同一の会社だったものが、戦後に石炭とそれ以外の会社に分割された会社が多く、三菱や住友など財閥解体により分離したものです)。

雄別炭礦の閉山の真相

雄別炭礦は昭和45年(1970年)2月28日に閉山した。 この閉山事情は今もって語られることは少ない。通常企業がなくなる場合、その多くは経営がなりたたなく「倒産」することが多い。いろいろな本にも倒産により閉山と書かれているものがみられる。

雄別礦業所の思い出

当時雄別礦業所には約1,200人の従業員が勤務しており、その家族及び関連会社・協力会社を含めると、雄別・布伏内地区で約12,000人が住む一大生活圏を形成しておりました。

雄別にはズリ山がない

坑内から搬出されるものは、石炭とともに岩石や土砂である。選炭場で製品になる石炭はホッパーに収められ、製品にならない石炭や岩石土砂は捨てられる。この捨て場がどんどん膨れ上がり山になる。これがズリ山である。九州ではズリと呼ばないでボタというのでボタ山と呼ぶ。

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進発所にテレビ

昭和42年頃、進発所にテレビが付いた。 金曜日の3番方は入坑が良くない。 金曜の午後8時~9時はプロレスが放送される。プロレスが原因!? 3番方のプロレスファンは、少し早く進発所に行く。 プロレスを見てから9時に入坑する。

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子線拾い(投稿者:選炭場従業員)

選炭場で石炭に混じってくる子線を拾う。銅線の子線を集め、売ると金になった。小銭ではあるが、資本の要らない臨時収入で、小遣銭になる。まれに不発雷管が付いている、不発雷管流出防止目的で、子線を見ると引っ張れと言われている。

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睦人道橋(投稿者:睦地区の住民)

昭和40年頃、睦橋の橋台はあったが、橋が落ち渡れなかった。 睦地区の人は何処に行くにも、緑橋を通らなければ何処にも行けない。 42年頃、橋に床を敷き通れるようになった。 白樺寮の寮生が、横山(飲屋街)に行く為の近道とか?

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敗戦直後の雄別

ふりだしの阿寒近くの生地の雄別炭山に戻る。ここにも、ぽつぽつと社員たちが戦地から戻ってきた。昔なじみの人たちは「よかったですね、たいへんでしたね」とお互いの無事を大そうによろこびあった。だれにも敗戦の無念さはなかった。戦争は勝つか負けるかでない。生きられるかどうかだけである。

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雄別鉄道の跡

閉山の三ヵ月後に、私が生れた雄別を訪れました。人には、いや、すべての生物にはふるさとへ帰る(りたい、ってみる)習性があるようです。そのあと、釧路を旧友・知人を探しほっつき歩きました。みちすがらの道路に二本の赤錆が横切っていました。