エピソード集一覧

『和泉』ってなんて読みますか

炭鉱には詰所というものがあります。 会社の敷地内に社員の住宅(炭鉱住宅)が建ち一定のブロックごとに住民の面倒をみる会社の出張所が「詰所」と呼ばれてます。他の炭鉱では世話所と読んでいる炭鉱もあります。 その詰所の一つに1区詰所がありました。所員の一人に「和泉さん」がおりました。

テンヤワンヤのお笑いバレー試合

40年以上前のことですが行事で9人制バレーをしたことがあります。 メンバーを集める世話役が技術2課の金沢さんでしたから職場対抗ではなく地域対抗だったのではないかと思います。6区と山手の7チームでのバレー大会だったのでしょう。

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進発所にテレビ

昭和42年頃、進発所にテレビが付いた。 金曜日の3番方は入坑が良くない。 金曜の午後8時~9時はプロレスが放送される。プロレスが原因!? 3番方のプロレスファンは、少し早く進発所に行く。 プロレスを見てから9時に入坑する。

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子線拾い(投稿者:選炭場従業員)

選炭場で石炭に混じってくる子線を拾う。銅線の子線を集め、売ると金になった。小銭ではあるが、資本の要らない臨時収入で、小遣銭になる。まれに不発雷管が付いている、不発雷管流出防止目的で、子線を見ると引っ張れと言われている。

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睦人道橋(投稿者:睦地区の住民)

昭和40年頃、睦橋の橋台はあったが、橋が落ち渡れなかった。 睦地区の人は何処に行くにも、緑橋を通らなければ何処にも行けない。 42年頃、橋に床を敷き通れるようになった。 白樺寮の寮生が、横山(飲屋街)に行く為の近道とか?

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敗戦直後の雄別

ふりだしの阿寒近くの生地の雄別炭山に戻る。ここにも、ぽつぽつと社員たちが戦地から戻ってきた。昔なじみの人たちは「よかったですね、たいへんでしたね」とお互いの無事を大そうによろこびあった。だれにも敗戦の無念さはなかった。戦争は勝つか負けるかでない。生きられるかどうかだけである。

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雄別鉄道の跡

閉山の三ヵ月後に、私が生れた雄別を訪れました。人には、いや、すべての生物にはふるさとへ帰る(りたい、ってみる)習性があるようです。そのあと、釧路を旧友・知人を探しほっつき歩きました。みちすがらの道路に二本の赤錆が横切っていました。

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旭町の広場~やはたラーメン

昭和35年まで居たと思います。幼稚園中退で引き上げましたのでたいした記憶はないのですが、今思えばスタンドバイミーの世界だったと悔やんでおります。広場のすぐ横に住んでましたが、当時にしてはかなりモダンな遊具がありました。