日常一覧

『和泉』ってなんて読みますか

炭鉱には詰所というものがあります。 会社の敷地内に社員の住宅(炭鉱住宅)が建ち一定のブロックごとに住民の面倒をみる会社の出張所が「詰所」と呼ばれてます。他の炭鉱では世話所と読んでいる炭鉱もあります。 その詰所の一つに1区詰所がありました。所員の一人に「和泉さん」がおりました。

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進発所にテレビ

昭和42年頃、進発所にテレビが付いた。 金曜日の3番方は入坑が良くない。 金曜の午後8時~9時はプロレスが放送される。プロレスが原因!? 3番方のプロレスファンは、少し早く進発所に行く。 プロレスを見てから9時に入坑する。

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小学校の頃の遊び

みんなで山に入ってあそんだり、空き缶でカンテラを作って夜な夜なさまよったり、 春になると、小学校のグランドに溜まった雪解け水の流れを堰き止める「水じょっぴん」 なる遊びをしたり、近くの川で魚をとったりと、楽しい毎日でした。

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雄別文庫

雄別の生活をしばらくすると、2区の雄別興産事務所か2区商事売店の近くに 「雄別文庫」なる砿業所が運営している図書館もどきのものがあると教えられた。 入り浸ったし、いつも何冊か抱えて帰ったものだった。

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子供たちにとっては何でも遊びの材料

冬はスケート(長靴に紐で縛りつける)遊び、夏はシュンクシタカラ川の深いよどみで泳いだり魚釣りと、全てが楽しい思い出です。K君と知茶布へ山女釣りに出掛け、あまりにも釣れるんで時を忘れ、日が暮れて帰ったら街の人たちが捜索に出る準備をして騒がせたのは、忘れることの出来ない思い出のひとつです。

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雄別鉄道無料券支給

雄別炭礦および関連会社の社員には雄別鉄道の無料券が支給された。勤続年数と資格により枚数が決まっていた。記憶は定かではないが12枚(往復すると6往復)貰っていた記憶がある。

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親子でSL運転室

汽車に乗り遅れそうになった時、機関士の方が私達親子を一番前の運転室っていうのかな、そこへ抱えあげるようにして乗せてくれました。石炭をくべる赤い火を見ながら古潭まで行きました。

雄別での思い出は「車が転落」

昭和42年だったと思います。夏の土曜日に若者だけで阿寒湖にキャンプに行こうと計画しました。はっきりとは思い出せませんが男6人、女2人に加えて現地集合として釧路営業所から男1人、女4~5人です。最高年齢が26歳か27歳で、年少は18歳でしょうか。

独身寮の食事

寮といえば1ヵ月の食事代が給料から天引きされていたのですが、初任給2万数千円の時代に食事代は3千円か2千円ぐらいだったと思います。おじさんとおばさん御夫婦とお手伝いの2人のお嬢さんで食事・掃除などの管理をされていました

当時の若者は・・・

当時はどの会社も週休1日でした。営業や官庁は土用半ドンでしたが、工場や「炭砿」は土曜日も通常どうりでした。連休になるのは年に2回。そうです、年末年始とお盆でした。